最前線から遠く離れて……。

  • Day:2013.01.26 13:35
  • Cat:日記
 日記。
 最近、本屋に行くと酷く辛くなる時がある。
「ああ、僕はいつの間にか最前線から遠く離れてしまったのだな……」と、そう感じるからだ。どういうことか。
 今月の二十日をもって二×歳を迎えた(←おめでとう!w)僕は――勿論、年長者には読んだ本の数は及ばないまでも――それなりに本が好きな人間だ、と自負している。まだ字も読めなかった幼い頃、寝る前の読み聞かせを楽しみにしていた僕は、「三つ子の魂、百まで」と云う諺があるように、今もそんなに変わっていないからだ。だから、本好きを名乗った時に「こんな本も知らんのか、若造め! 出直して来い!」と哂われこそすれ、恐らく天からの罰は当たるまいと思う。それに、単純に考えるなら、このまま行けば読んだ本の数は伸びて行くだろうし、そうした意味では、僕もいつかは年長者の仲間入り出来たら良いな、とは思う(勿論、その時には決して若者を哂ったりはしないようにしよう――だって、それは昔の自分だよ?)。
 だけど、若さには若さの良さがある。体力だ。それは長い時間の読書が出来る、とかいう類のモノではなく、最前線に居続けられる体力。
 例えば、僕もかつては『ニコニコ動画』がまだ仮オープンだった頃に発見し、「何だコレ!! めっちゃ面白い!!」と驚き、周囲の友人はおろか先輩にまで「コレ絶対に流行りますから!! アカウント作っておいた方が良いですよ!!」などと布教して回っていたものだった(本登録が始まる日、本当ならばいの一番にアクセスしてなるべく少ない桁番を貰おう――それはまるで、嫌われ者のゲッターの如く(笑)――と思っていたのに、急なバイトが入って涙を呑んだのは今も忘れない)。ニコ生だって、初めて面白いと思えた放送に出くわしたその日にコミュを作って自分でもやってみるだけの体力があった(そして、そのお陰で、僕程度のトーク力でもコミュに二〇〇人もの方々に集まって貰うことが出来たのだ)。
 同じようにして、本も、面白いものは他の誰よりも先に知りたいという欲求が確実にあった。小説、漫画、或いは媒体は違えど映画やアニメなどなど……どれも積極的に読み、視聴した。動画だって、ハマっていた時は新着のチェックを欠かしたことさえ(例え、友人の家に泊まっていた時でさえ)一日たりともなかったのだ。
 だけど、最近そんな体力がいつの間にか失われていることに気が付いた。勿論、楽しめていない訳ではない。寧ろその逆で、この一年はこれまで触れて来なかった方面にも触れてみた――例えば、批評や研究、終いには自分でも同人誌に拙い感想文のようなものを寄稿する機会さえ得た――ことで、楽しみ方は広がった気さえする。
 だけど、それでも僕は既に最前線にはいないのだ。それに気付いたのは、とある方々との食事中だった。そこで、「最近は何が若者に熱いのか」という問いが出た時に、僕ともう一人の方は「やっぱり今は『カゲロウデイズ』とかが最強なんじゃないですか? 或いは、ソシャゲとか……」と答えた。
 しかし、その時に、僕は自分で気付いてしまったのだ。
「待て……それ、自分でちゃんと体験てないよな?」、と。
 一応、言っておくけれど、僕は決してこれまでボカロやソシャゲなどをdisったことがない。少なくとも、そういう風に意識して来たつもりだったし、それが恐らく面白いのだろうというようにさえ認識している(でなければ、ボカロクラスタの方と仲良くさせて頂いたりはしなかっただろう)。だから、機会さえあれば、自分でももっと体験してみたいとは思っていた。
 だけど、その態度は確実に昔と異なるものだ。昔なら何はともあれ自分の目で、耳で、指で、ありとあらゆる五感で体験していたのではなかったか……誰よりも早く。
 愕然とした。
 その時、僕はふと、ある作品のことを思い出していた。
 それは押井守監督作品『劇場版パトレイバー2 The Movie』。
「だから、遅すぎたと言っているんだ!!」でも、よく知られている(と、思う)アレである。
 この名台詞の直前に、後藤は以下のように云っていた。

後藤「戦線から遠退くと楽観主義が現実に取って代る。
そして最高意志決定の場では、現実なるものはしばしば存在しない。
戦争に負けている時は特にそうだ」

 この他にも、例えば作中に登場する荒川などの台詞もあってか、同作を「リアルな戦争を東京に持ち込んだ」作品だと分かり易く纏めた意見を目にすることも少なくない。そして、そういう方々はこぞって本作を通じて、「仮想現実へ逃避する人々よ、現実を見ろ」なんて紋切り型の批判を口にする。
 でも、端的に言って、僕はそれはないんじゃないの、と思う。本作の犯人である柘植は、確かに戦場へ行った。だけど、彼が体験した戦場は、全てがモニター越しに行われたものではなかったか。作中でベイ・ブリッジが爆破された直後のスクランブル、あの緊迫した通信が行われる管制室とは裏腹に、結局のところ「ウィザード」たちが何かに出会ったのだったか(あの場に、「ワイバーン」はいなかったのではなかったか)。結局、全ては画面越しなのだ。そこでは言葉と並行して、映像が物語っている。スクリーンという膜が、彼らの(そして、僕らの)間に歴然と隔たっていることを。
 実際、柘植の計画が東京で実行された時も、人がいなくなった建物の描写が目を引く。個人的なことを言えば、その中でも特に印象に残っているのが、目の前を去り行く電車の窓が無数に連なり、戦車に乗る自衛隊員の顔を照らし出すシーン。あのフレームの連続が、「フィルム」以外の何であると云うのだろう。
 それは敢えて云うなれば、例えば湾岸戦争が「ニンテンドー戦争」と呼ばれたことを連想させる。勿論、そこで人々は確実に、そして大量に死んでいる中で、それでも尚ヴァーチャル・ウォーだと云う事実。ヴァーチャル・ウォーでありながら、そこに亡くなった人々がいるのだという事実。それは「現実に帰れ」なんて分かった気になってしまう簡単な言葉で纏められる問題ではないのではないか(だからこそ、その先にゲーム『MGS』シリーズで、小島監督が描き出したテーマがある……のだが、それはここでは置いておこう)。
 数々の事件を経て、現在は非常事態が全面化し、普遍化した世界だとも云われている。それは、例えばオタクなんて狭い界隈だけを取り上げたって、やれ「○○が分からない奴は駄目」だの、やれ「あの作品は××だから駄目」だの、右と左に分かれて口喧しいったらありゃしない。僕からしてみれば、そんなの知識を付け(=「訓練」という特殊な「儀式」を経て)、誰かれ構わず喧嘩を吹っ掛けて「高揚感」に喜んでいる時点でどっちもどっちだ(勿論、そんな見境のないフレンドリー・ファイアをしていないサイレント・マジョリティが多くいることも忘れてはならないのだけど……)。
 そんな中で、最前線を離れてしまった僕の頭には、あの柘植と南雲の会話が駆け巡って離れない。

柘植「ここからだと、あの街が蜃気楼の様に見える。そう思わないか」
南雲「例え幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きる人々がいる。それともあなたにはその人達も幻に見えるの」
柘植「3年前、この街に戻ってから俺もその幻の中で生きてきた。そしてそれが幻であることを知らせようとしたが、結局最初の砲声が轟くまで誰も気付きはしなかった。いや、もしかしたら今も」
南雲「今こうしてあなたの前に立っている私は、幻ではないわ」

 最前線にいられる体力は既になくなってしまった。これは恐らく、誰しもがいつかそうなるだろう必然だ。人は、必ず老いるのだから。そして、その時に必要なのは、フィクションをリアルだと感じることが出来る能力。恐らく、これこそが何かを好きでいられる最終防衛ラインなのではないか。この分水嶺が、老害とそうでないものを分けるのだ。
 ……日記にしては長くなったので、そろそろ終わりにしたい。
 最後に、物語のラストで柘植が述べる言葉を引用して締め括る。僕が今日も小説・漫画を読み、映画・アニメを視聴する為に。

松井「一つ教えてくれんか。これだけの事件を起こしながら、何故自決しなかった?」
柘植「もう少し、見ていたかったのかもしれんな」
松井「見たいって、何を」
柘植「この街の、未来を」

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  • 2013/08/29 18:43
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