【告知】『セカンドアフターEX2012』に論考を寄稿しました。

  • Day:2012.11.13 23:05
  • Cat:日記
 お久しぶりです。
 今回は、2012年11月18日(日)に東京流通センター 第二展示場(E・Fホール)で開催の第十五回文学フリーマーケットで頒布される『セカンドアフターEX2012』の話題です。ブースはエ‐65で、価格は700円になります。
 実は、僕はこれに「亜人間は箱入り猫の夢を見るか――『ジョジョの奇妙な冒険』が描く歴史、その断片として」という題の論考を寄稿させて頂きました。
 この『セカンドアフターEX2012』では、『ジョジョ』の連載25周年を記念すると共に、主催の志津Aさんが創刊からずっと「震災」をテーマにしていたことと併せて「特集:杜王町」を組んでいます(一応、説明しておくと、荒木飛呂彦氏はこの第四部「ダイヤモンドは砕けない」の舞台となった「杜王町」のモデルが自身の出身地である宮城県仙台市の「郊外」であることを公言しており、実際に現在も連載中の『ジョジョリオン』では、冒頭からまさに震災によって傷付いた「杜王町」の様子が描かれていることに起因しています)。そして、僕の論考はその一つな訳です。
 また、他には僕も交流のある、すぱんくさんによる
「ラブ・デラックスは砕けない」や、
前号『セカンドアフターvol.2』に掲載された「郊外から考える――震災・郊外・浜松」の姉妹作となるhmuraokaさんの
「杜王町から考える――震災・郊外・吉良吉影」があります。
 前者は山岸由花子(「杜王町」を舞台とする『ジョジョ』第四部の登場人物)に焦点を当てた論考、後者は合い言葉を「「郊外」で生きる誰もが吉良吉影(同じく第四部の登場人物)になりえる」にサブカルチャー作品を通して郊外における生について考える論考となっているようで、僕も今から読むのを楽しみにしています。

 そして、それ以外でも、志津Aさんと『セカンドアフターvol.1』でアニメ『けいおん!!』論として「ツインテールの天使――キャラクター・救済・アレゴリー」、『セカンドアフターvol.2』で「喪失と希望の対位法――『ほしのこえ』とエグザイルの詩学」という『ほしのこえ』論を寄稿していたてらまっとさんによる対談
「震災後の遠景――アニメから見た二〇一二年の風景」や、
二〇一二年批評として、前号に「時の流れに響かせて――『STAR DRIVER 輝きのタクト』の声」という『STAR DRIVER 輝きのタクト』論を寄稿なさっていた田中のどさんの
「不可解な怒り、盲目の話者――『氷菓』『Another』を中心に」
同じく前号で『もののけ姫』の音楽を徹底分析した対談「セカイの終わりのあとに聴こえたもの――『もののけ姫』が鳴らした崩壊と再生」のお二方である兎男さん(この方は第一号に「セカイの終わりを荘厳する思想――めんまが二度死ぬとき僕達は「あの花」と別離する』という『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』論を寄稿していた方でもあります)とPIANONAIQさんがそれぞれ
「モーニング・エイジ」に生きる――ポスト3・11の幽霊たち」というエッセイ、
「三分三十一秒の奇跡――『坂道のアポロン』が奏でたジャズ」という『坂道のアポロン』を題材にした論考を、
それに加えて今回はTomonariさんという方が
「AKB48の世代交代――夢の場所からの再出発」と題したAKB48論を寄稿していらっしゃるらしく、本当に様々な話題を取り扱った内容になっているようです。
 当初、この寄稿の話を持ちかけられた時は「増刊号でライトな感じ」だと聞いていた為、今こうやって公式にアナウンスが出て他の方々の内容を知り、その内容の濃さに僕は非常に驚いてしまいました。(※尚、より詳しい内容に関しては、こちらの『セカンドアフター』公式ブログをご参照下さい→http://d.hatena.ne.jp/second_after/20121111/1352637368
 この告知から察するに、手に取って頂ければきっと損をさせることのない内容になっていると思いますので、もし文フリにお立ち寄りの際は『セカンドアフター』を是非とも宜しくお願い致します。エ‐65です。


メモ



















































 さて、ここからは追記というか、或る意味では個人的な雑記です。
 と言っても、これも前述の寄稿と関係はないこともないのですが、概ね無視して下さって構いません。気が向いた方だけ読んで下されば嬉しいです。
 まずはじめに、最近になって僕はある方々と〈殲滅ひょーぎかい〉なる名前の……何と言ったら良いんでしょうね? 読書会? みたいなものに参加しております。
 この会は、基本的には月に二作品、映像媒体と本媒体を課題作品として、その感想を皆で話し合うというもので、特別にレジュメを作ったりもせず、スカイプにて雑談交じりの軽いノリで行われる集まりです。実は先程に名前を挙げたすぱんくさんも、ここで出会った方だったりします。
 ちなみに、これまでの課題作品は、第一回が劇場版『ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』・『煙か土か食い物』(舞城王太郎)、第二回が小説『死者の書』(折口信夫)・映画『エンジェルウォーズ』(原題『Suckerpunch』)、第三回が『孤独な散歩者の夢想』(ジャン=ジャック・ルソー)・映画『精神』、第四回が『境界線上のホライゾンⅠ(上・下)』(川上稔)・劇場版『CLANNAD』、第五回が小説『ノーライフキング』(いとうせいこう)・漫画『シンプルノットローファー』(衿沢世衣子)・映画『第9地区』、そして次回の予定が劇場版『神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』・小説『赤頭巾ちゃん気をつけて』(庄司薫)となっています。これは、回毎に皆が候補を持ち寄って多数決で決めた結果です。主催のぼすさん曰く、「とにかく、バラバラな指向のものを摂取したい」だそうで、その意図はそれなりに反映されているのではないかと自分では思います。
 で、その通話の文字おこしを最近、メンバーのこうさきさんという方がやって下さっていて、例えばこんな感じになっています→http://pretheories00.hatenablog.com/entry/2012/11/01/002454
 僕はこれまで基本的に論考や評論などといったものには触れる機会がなく、ここ一年ちょっとという短い期間に独学で得た少ない知識を総動員して、この会に(殆ど必死でしがみつくように)参加している訳ですが、この回のまだ文字おこしされていない『第9地区』の会話の中で「インターフェース」に関する話題が僅かではありますが出ました。恐らく、その時は各々が『ノーライフキング』(と、その主題)も念頭に話をしていたのだと僕は勝手に想像していますが、今回の『セカンドアフターEX2012』に寄稿した拙稿は、割とこの「インターフェース」に重なる問題を扱っているのではないか、と自分では思っています。
 なので、ここからは、その話を兼ねつつ、今だから出来る「たられば」話を、つまり「寄稿した文章はあーすれば良かった、こーすれば良かった」的な補足をしてみたいと思います。つまり、これは書いた僕自身による僕への批判を読者の方に先んじてする記事であると共に、この記事を横目に拙稿を読んで頂くと僕の訳の分からないだろう文章も少しは理解して頂けるのではないか、という何とも見苦しい言い訳にもなっている訳です。

 では、本題に入りましょう。
 そもそも今回、僕は『ジョジョの奇妙な冒険』を漫画評論家の伊藤剛の著作である『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』を手掛かりにして読み解いて行こう、という試みを企てました。この本を読んだことのある方は想像が付くかもしれませんが、つまり、そこで提出された「キャラ Kyara」と「キャラクター Character」という概念を、具体的に『ジョジョ』を通して考えて行こうとしたのです。そこで僕が注目したのがまず「ジョナサン・ジョースター」と「ジョジョ」という「二重」の呼び名でした。「キャラ」と「キャラクター」を「人間」と「亜人間」として考える時、この呼び名の「二重性」はそのまま「ジョナサン=キャラクター」・「ジョジョ=キャラ」だと考えられるのではないか、というのが始まりになっています。
 よって、僕に求められたのは、この「二重所属」するものについて考察することです。ちなみに、僕は最終的にそうした荒木氏の描くものの呼び名に、荒木氏がプロテスタント系の神学校の出であることを含め、「被造物 Creature」という名を宛がい、それが「キャラ」と「キャラクター」の層に「二重所属」しているのだと整理しました(とは言え、実はこれを思い付いたのは拙稿を書き出してからかなり遅れてで、ぶっちゃけて言えばその名残は修正出来ずに文章中に残っています。というか、「被造物」という単語も第一節の纏めでようやく出て来るくらいです。プロテスタント系神学校出身であることも本文中では触れていませんし……。もっと早くに思い付いていれば、まず前提としてこの名前を出すことが出来て、もっと分かり易い内容になっていたように思うだけに残念です。今更ですが)。ちなみに、ここで僕が念頭に置いていたのは、批評家の東浩紀氏による著作『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』などで論じられていた、ジジェクらの云う「スクリーン」や「イメージ」、「シンボル」でした。
 そして、この「二重性」から僕は二つのことを論じます。それは「キャラ」の「キャラクター」に対する「先行性」と、「キャラクターを立てる(小池一夫)」為の「立体性」です。この「先行性」が「同一性」のないコマ毎の、或いは各話の、そして引いてはシリーズ全体の登場人物たちを「同じもの」として律することで、『ジョジョ』の長期に渡る連載を可能にしているのではないか。また、後者の「立体性」に関しては、これが例えば手塚治虫氏や石森章太郎氏が小説における「内面と外面」をどう画面上に分節化するか、その腐心の末に見出した「映画的映像手法」を要請するのではないか、という風に論じました。これらの内で主に検討したのは後者についてなのですが、そこで参照したのが『ユリイカ』での「荒木飛呂彦特集」の際に掲載されていた漫画研究家イズミノウユキ氏の「ヘブン・ノウズ・ハウ・ザット・ビジョン・イズ  〈ねじれる視線〉と〈神の視点〉の可能性」という論考です。その論考は荒木氏の特殊な「コマ割り」を綿密なデータとして調べ上げ、それを西洋美術史と併せて検討しつつ、荒木氏が漫画内のコマの傾きから実際に読者の目から発せられているはずの視線とは異なる「仮想アングル」という「斜めの視線」を生んでいること、そしてそこから更に「神の視点」に言及するという緻密、且つ大胆な論考なのですが、これに関して本来ならもっと整理し、或いはしっかりと引用をして字数を割くべきだったように思います(拙稿では、この「仮想アングル」について僅かに触れたのみとなっています)。漫画という媒体が、実は考えられている以上に「立体的」な媒体だというイズミ氏の主張は、正直、僕の論考を読んでもその素晴らしさが僅かながらも伝わらないかもしれません。これに関しては僕の力不足で本当に申し訳ないのですが、一番良いのはイズミ氏の記事を読者ご自身の目で確かめて頂くことだと存じます。ともあれ、ここで「キャラ」が「キャラクター」を(今回の場合「ジョジョ立ち」という「キャラクターを立て」る方法)を規定することがある、という議論が次へと繋がります。
 何故なら、イズミ氏と言えば『ユリイカ』の別の号、「マンガ批評の新展開」での「キャラたち/キャラクターたち 『三月のライオン』――零たちと読者たちの視点」では伊藤氏の云う「キャラ」の「前(プロト)キャラクター性」(ちなみに、これが僕が「先行性」と言い表したものですね)“だけでなく”「キャラクター」によって「キャラ」もまた生まれるという「後キャラクター性」、そして「キャラ」が単数ではなく、寧ろ複数の間の「関係性」から立ち上がるものでもあることを論じていることなども忘れてはなりません。拙稿では、後者は単語の幾つかに匂わせた程度で十全に取り扱えたとは言えませんが、前者のほうには相対的に焦点を当てています。そこで参照しているのは、先程も名前を挙げた東氏の『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』で用いられた「コーラ kaora」という言葉です。これは元々、古代ギリシャの哲学者プラトンが宇宙創世論『ティマイオス』で用いた言葉ですが、これを「キャラ」を考える上での物差しとして引用しています。東氏は「コーラ」を、デリダが強調した「散種の時間性(=「決して現前しない奇妙な過去」)」に関して参照していました。そして、そもそも「コーラ」とは、一方では様々な形相を描き込まれる受容者であるが、しかしそれ自身は決して現前せず、あらゆるものを受け入れながら白紙のままであり続ける奇妙な「場所」です。そして、「キャラ」もまた決して私たちの前に「現前しない奇妙な過去」であるが故に、先程の文章を僕はこう書き換えます。“「キャラ」とは、一方では様々な「キャラクター」を描き込まれる受容者であるが、しかしそれ自身は決して現前せず、あらゆるものを受け入れながら白紙のままであり続ける奇妙な「場所」”だ、と。この“描き込まれる”という部分が「後キャラクター性」を意味する訳ですね。但し、今になって読み返すと、この後すぐ結論に行ってしまっていて、自分でも正直、何を言っているのか分かり辛いのではないかと思いました。ここら辺はもっと丁寧に語るべきだったなぁ、と反省しています。
 さて、ここまで述べて来た内容で、大体、拙稿の前半部分を紹介して来た形になると思います。後半では、前述した「キャラ/キャラクター」が第三部へ移るにあたって「スタンド/登場人物」というような形で(「後キャラクター性」を象徴するかのように逆転して)画面内へと取り込んで描き出されるようになったことを端緒にして、「キャラ」の問題が「郊外」を避けられないこと、そして最終的にはそうした「メタフィクション」性が辿り着く「読者の主体」(これを「視点」と言い換えても良いかもしれません)に言及して行きます。そこで主な問題となるのが、第四部における「郊外」と「匿名性」に関する「ユートピア/ディストピア」(そういえば、最初は気付いていなかったのですが、書いている内に何度も古代ギリシアの言葉――例えばこの「ユートピア」という造語の語源もそうですね――が頻出していたのは予期していなかったので自分でも驚きでした)の問題なのですが……本記事で扱うのはここまでにしておこうかと思います。この続きはまた、文学フリーマーケットが終わった後にでも機会があればやりたいと思います。
 ちなみに、後半で出て来る主なキーワードを挙げておくと、前述した「メタフィクション」や「郊外」、「匿名性」は勿論のこと、「固有名」、「自己同一性」、「交換可能性」、「大量死理論」、「不可視の大量死」=「届く筈のなかった声」=「ありえたかもしれない」、そして「祝福」と「未来」となっています。
 ……一応、書いてみたものの、ちょっとこれだけでは分からないですね(笑)
 後半部分も、もっと「匿名性」と「キャラ」を詳しく論じるべきだったりするのではないか、或いは「スタンド」について(特に五部の「G・E・レクイエム」など未読の方には分かり辛い能力)はもっと泥臭く説明を行うべきだったのではないか、また小説家で批評家でもあるミラン・クンデラは「芸術においては、[…]形而上的な問いは、具体的で明確な意味を持ち、答えがないなどといったことはまったくない」と述べましたが、であれば「神の視点」はもっと掘り下げられるべきであった、或いは単純にアウトプットをもっと上手に整理してから出来たら良かった、などと今になって後悔したりもしていますが、そういうことを言いだしたらキリがないので、ある程度の補助線が引けたところで止めておきましょう。

 で、ようやく「インターフェース」の話に戻って来るんですけれど。ここまで述べて来た「キャラ」と「キャラクター」の議論では、本来なら(即ち、後半で論じる荒木氏のような「メタフィクション性」を持たない限りは)「キャラ」が「決して現前しない」ものだと云う議論を組み立てて来ました。これは、まさに手塚が「映画的」であることにも関連するのですが、前述の『サイバースペース~』に則ればまさにモーリス・メルロ=ポンティらが論じているという「映画的視線」であり、「主体」の構図です。
 しかし、荒木氏の『ジョジョ』では「イメージ」と「シンボル」が共に画面内に描かれており、私たちはそれを読む(見る)ことが出来ます。そして、そうであるならば、『ジョジョ』を語る上では「映画」ではない、異なる隠喩を用いるべきことは明らかです。例えば、東が『サイバースペース~』で論じている「インターフェース的主体」はまさにその候補として挙げられて然るべきでしょう。つまり、「目」だけでなく「耳」や「手」に「分散」された「主体」や、「二重化」された(それは最早、「遮る」ものではなく「膜」のような)「スクリーン」上の「イメージ」と「シンボル」として「グラフィカルインターフェース(GUI)」を図式化すること。何故なら、そうした「インターフェース」は直感的に操作出来ることを求められるが故に、僕たちの「意識」などを解体し、再構築したもの(に近づいて行っている)と考えられるように思うからです(それが、僕がこうさきさんたちに言った「インターフェースは革命的」であると思う所以です)。
 その意味では、〈殲滅〉メンバーこうさきさんが最近、ずっと思案している幾つかの図は意味のあるものであるように思います(※例えば、その一つがこのような図でした→https://twitter.com/k0usaki/status/265805305965846529)。
 勿論、僕と彼の問題意識は異なる為、対象とするものも違って来るでしょう。こうさきさんはフロイトの「マジック・メモ」に関する議論から、この「2カラー先生」を持ち出して来ているのだと思いますが、僕は元々ニコ動のコメントシステムなどに興味がある(それで以前にブログ記事を書いたこともありましたね)ので、どちらかと言うとPCとブラウザ、そしてキーボードやマウスといった素材を扱うことになるでしょう。しかし、それを考える上で、こうさきさんの云う「処女性」に対する「童貞性」などのキーワードは、マウスやキーボードといった入力装置が決して画面上に直接、刻み込むものではないことなどから通じるものであるように感じています。
 ……なので、そのような感じの場所に、次の僕をアップデート出来れば良いなぁ、という整理が今回の寄稿で出来ました。そうやって、一歩ずつ進んで行きたいですね。
 ただ、当分は纏まった論考を発表することはないと思います。今回の寄稿では、前回とは全く異なった戦略を立て挑んだ(勿論、共通する意図は存在しますけど)訳ですが、やはりもっとインプットをしなければならないことを再確認しましたし(あと、多言語の勉強もちゃんとしないといけないかも)、そもそも他にもやらねばならない作業を抱えています。僕としては、そっちを重点的に進めたい(というか、最近は御無沙汰だったので、まずはリハビリから始めないといけない)のです。という訳で、この辺で記事も終わりたいと思います。
 長々とアレコレ書いてきましたが、もしも現地で『セカンドアフターEX2012』を手に取ってみようという方がいて、拙稿をお楽しみにして頂けたら、これ以上に嬉しい事はありません。また、僕のことなんか関係なく、他の方々は非常に充実した内容であると思いますので、再度になりますが皆さんどうか宜しくお願い致します。
 あと、僕は当日、文フリに行けるかは正直、分かりませんが、もし行けたとして、そんな僕と遭遇してしまった場合はお手柔らかにお願いしますね(笑) 以上、人見知りのtacker10の告知と雑記でした。
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まとめ【【告知】『セカンドア】
 お久しぶりです。 今回は、2012年11月18日(日)に東京流通センター 第二展示場(E・Fホール)で開催
  • 2012/11/15 18:27
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