アニメ『氷菓』を満たすもの――または「評価」とは何か

  • Day:2012.06.19 03:48
  • Cat:日記
 単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい。――坂口安吾『FARCEに就て』

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 京都アニメーションを巨大な一人の作家として見做し、その作品の歴史の変遷を紐解こうとした時、そこに立ち現われてくるのは果たして作中の「空間」を満たすものとは“何か”、という問いではないだろうか。京都アニメーションとは、その“何か”を追求して来た作家として、ある。

神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。
(『旧約聖書 創世記 第一章 第三節』)

 この余りにも有名な一節は、京都アニメーションだけでなく、そもそも現在までのアニメ(或いはオタク)史において極めて重要な文言だと言ってよい。何故なら新しい“光”の表現方法とは――例えば、出統の表現演出や、新海誠の登場によって端的に示されたデジタル技術の進歩が分かりやすいように――今や私たちにとって非常に基礎的なものとなる程の発明としてこれまで常にあったからだ。それは現代社会で例えるならインフラストラクチャーとしてのパソコンや携帯、或いはインターネットの発明に近しいものでさえあった。
 ――神。アニメに限らず、一般に日本でオタクカルチャーに分類されるものは、文字通り「漫画の“神”様」と呼ばれた手塚治虫によってその幾つかの基礎が創造されたと言っても過言ではない。つまり、「初めに、神は天地を創造された。」のであり、そしてその「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」のだ(無論、この短い三節に――それが例えサブカルチャー史の一部と云えども――長きに渡る歴史を纏めてしまうのは聊か乱暴ではあるが、しかしここに多くの示唆的な言葉が含まれているということは何度でも強調しておきたい)。
 そして、既に述べたように様々な技術の進歩によって“光”の表現方法は幾度となく革新と実践がなされてきた。それは京都アニメーションも決して例外ではない。例えば彼らが初めて元請けで手掛けた賀東招二の人気ライトノベル『フルメタル・パニック!』シリーズのアニメ化(2002年)は、特に二作目のアニメ『フルメタル・パニック! The Second Raid』(2005年)の最終話において生きる気力を失いかけた少年・相良宗介を画面の奥からヒロイン・千鳥かなめが微笑み諭す際、夜明けの“光”が暗かった街を後光の如く照らし出していくシーンに最も明らかなように、まさにそのような作品としてあった。そこで描かれていたのは、別役実の云う「遠景」から「近景」までの「空間」を“光”が満たしていく光景なのである。「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」
 また、それと並行するようにアニメ『AIR』(2003年)がある。

神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
(『旧約聖書 創世記 第一章 第六節』)

 この後に、京都アニメーションは『Kanon』(2006年)や『CLANNAD』シリーズ(2007~2009年)といった、所謂「key」のアダルトゲームを原作としたアニメを手掛けて行くことになるのだが、ここで重要なのは、そもそも「セカイ系」の重要なキーパーソンとも見做される新海誠が、多くの論客が云うようにこうしたアダルトゲーム業界の出身であったことよりも先に、彼(彼ら)が優れた“光”の表現者であったということだ。つまり、「セカイ系」というジャンルは、常に「空間」を満たす“光”の表現として世に現れており――それは言い換えれば「セカイ系」とは“光”によって「近景」と「遠景」がデジタルに繋がれる/満たされる作品を指す、たったそれだけの言葉にまで拡大され得るということを示している――京都アニメーションもまたそれに忠実だったということである。そして、『AIR』のラストは子どもたちが「水と水を分け」た水平線の先=「外部」に未来を託すことで幕を閉じる/と同時に開け放つ(ここから『Kanon』、『CLANNAD』各論や、他の作家の作品――例えば『ONE PIECE』などとの比較を行うのも吝かではないが、しかしそれでは本題から余りに話が外れてしまいキリがないので留意するにとどめておこう)。
 更に「key」のアニメ化と時を少し前後する形で京都アニメーションが手掛けたのがアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006、2009年)である。この“メタ”「セカイ系」とも呼ばれる作品は一見すると対立項にあると見做しがちな「セカイ系」と「空気系」(ここで注意を促したいのは、それを「日常系」とは些か異なったものとして考えなければならない、という点だ)が、実は相反するものではなく、寧ろ極めて密接な連続性を持ったものであることを容易に理解させてくれる。それを第12話「ライブ・アライブ」を例に取って説明してみよう。この物語では主に(自分では知らないが)神の如き能力を持った少女・涼宮ハルヒが様々な活動を通じて次第に周りの世界へと着地して行く姿が語り部・キョンの視点から描かれる。そして、この挿話でも文化祭の軽音部のライブに参加することになったハルヒが、そのライブを通じて彼女たちの所属する「SOS団」や、その他の人々と触れ合うことになるのだが、それは以前までとは違い、あの舞台を照らすスポットライトの“光”(それはハルヒの作り出したセカイから帰還する際にも既にあったものだ)だけではなく、“空気”を震わせる“音声”をも通して行われている。それはつまり、京都アニメーションが“光”から、それが通過する「空間」を満たしていた“空気”(或いはそれは、実は『AIR』=「空/空気」という示唆的なタイトルの時点で既に仄めかされていた、と捉えることさえ出来るかもしれない)を遡及的に発見した、ということに他ならない。だとすれば、その中を伝播するような“音声”のライブ感こそ、私たちが現在も享受している「空気系」の基本とも言うべき「アウラ」(元々はギリシャ語、ラテン語で「息吹」)だと捉えることが出来るだろう。例えばこの後に京都アニメーションが手掛けるアニメ『らき☆すた』(2007年)やアニメ『けいおん!』(2009年)はまさにそうした、まるで声を挙げればそれだけで伝わる=奇跡になり得る、とでも云うかのような作品としてある(それは『らき☆すた』のダンスOPがラストに持ってこられたシーンや、『けいおん!』における各ライブから容易に理解することが出来るだろう)。それ故に、そこには両者の媒介となる“空気”を生み出すために、「聖地巡礼」さえ可能にするような、京都アニメーションの細やかな書き込みが必要とされたのではないだろうか(また、その伝播が“音声”によってなされるが故に、声優などの重要性が格段に上がったことも間違いない。第三次声優ブーム以降のオタクカルチャーにおける声優の人気と、その重要性を知らぬ者は最早いないだろう)。
 そしてアニメ『けいおん!!』(2010年)、アニメ映画『けいおん!』(2011年)では、そのような“空気”を媒介として、「いま、ここ」と「いつか、どこか」を軽やかに飛翔する様が描かれ、それはまるで“メタ”「空気系」とでも言うべきアニメ『日常』(2011年)へと繋がって行く。それは彼らが更に俯瞰する立ち位置へと至ったことを意味した(しかし、ここで断っておかなければならないのは、これまで述べたことは勿論、京都アニメーションだけの発見ではない、ということである。例えば、私たちは『AIR』などの「セカイ系」によく見られる自己言及的入れ子構造から『けいおん!』における「空気系」や『日常』のメタ「空気系」作品への流れを、他には今敏のアニメ映画『千年女優』(2001年)からアニメ映画『東京ゴッドファーザーズ』(2003年)への流れの中などにも同様に見出すことが出来るに違いない)。

 ここまで矢継ぎ早に、かなり大まかな(というよりも、幾つか自分が観ていない作品は抜かさざるを得なかったため、そこはご了承願いたい)京都アニメーションの歴史を追って来た。それは一言で表すならば“電波から伝播へ”、或いは“俯瞰へ/メタ志向”とでも言うべきものである。そして、それを可能として来たのは、デジタルによる“光”の表現技術、“空気”を存在させ得る緻密な描写技術の裏打ちであった。
 そして、そんな京都アニメーションが現在放映中の作品が、米澤穂信のミステリ小説をアニメ化した『氷菓』だ。では、この『氷菓』の「空間」を満たす“何か”とは、果たしてどのようなものだろうか。それを語るためには当然のことながら、アニメ『氷菓』について具体的に言及して行かなければならない(ちなみに、ここでは米澤の、例えば映画化もされた『インシテミル』などの他作品や、その経歴と人気などに触れることはせず、アニメ『氷菓』単体への言及を行うこととする。また、この記事を書き出した時点ではまだ第七話までしか放送されていなかったので、言及範囲もそこまでとする)。

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 まず、アニメ『氷菓』の「空間」を満たすものについて語る前に、これから確認しなければならないのは、このアニメ『氷菓』が、(例え、事件らしい事件が起きなくとも)紛うことなき「ミステリ」と「ミステリアニメ」として成り立っている、という二点である。そして、それと並行してこの記事の副題でもある「評価」について考えを巡らせねばならない。それをなるべく分かりやすく行うために、ここでは第一話ではなく、第七話(と、併せて第六話)から触れていくという、少し面倒な構成を取ることになるが、ご了承頂きたい(尚、言うまでもなくこの先はこれまでとは比べ物にならない程の重大なネタばれを含むので、未見の方々はご注意願いたいと思う)。

 アニメ『氷菓』第七話「正体見たり」は、本作の主人公・折木奉太郎がヒロイン・千反田える、友人の福部里志、伊原摩耶花らと共に旅行へと出掛けた先の温泉で、ある不思議な事件――夜中に、えると摩耶花の二人がまるで首を吊っているかのような影を旅館の中で見てしまう――に出会うというものであった。この挿話の根底にあるのは、タイトルからも見て分かる通り、「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」という諺である。アバン、葉にとまっている(かのように見える)てんとう虫が突然、真横へと奇妙な動きを見せるシーン。ここで最初、視聴者はぎょっ、と違和感を覚えるに違いない。それはまさに幽霊を見てしまったかの如く。しかし、カットが切り替わると、奉太郎たちが実はバスに乗っており、てんとう虫が窓の外の葉ではなくバスの窓にとまっていただけなのだという事実が明らかになることで、これはすぐさま解消される。このシーンが前述した諺の意味「薄気味悪く思ったものも、その正体を知れば怖くも何ともないということ」を表象することは明白だが、ここでもう一歩踏み出して考えれば、前述の諺が「怖いと思っていると、何でもないものまでが、とても恐ろしいものに見えてしまうこと」の喩えであることに思い至る。言い換えれば、「人は見たいものしか見ない」ということだ。実はこれこそがこの挿話において最も重要なものであり、それは先程のシーンで既にバスに乗っていることを当然知っていたが故に何ら驚くことなく窓から里志の髪の毛へ飛び移ったてんとう虫を冷静に見てとってしまう奉太郎も決して例外ではない。彼の回想シーンにおいてえるの顔に書かれている(かのように見える)「温泉に行きたい」も、壁越しの音から彼が妄想する「入浴中のえる」(を見ているかのような)の映像も実際は彼が「見たい」からそれが見えて/描かれているのだ(だからこそ摩耶花の入浴は作中では写されないのであり、そう考えると奉太郎も至極、高校生らしいと言えば高校生らしい可愛さを持っていると言える“かもしれない”)。そして、この挿話のラストは、それまでずっと「(仲の良い)姉妹が欲しかった」と言って旅館の娘である善名姉妹に憧れていたえるが、騒動の真相を知って彼女たちの不仲を疑い落胆してしまった矢先に姉が妹を負ぶう姿を見つけるところで幕を下ろす。これを、結局はえるが「見たいもの」でしかなかった、と指摘することは簡単だ。確かに、この挿話のみを見れば、一見すると幸福でありながら実はそれとは裏腹にビターな物語を展開している、ように見えなくもない(このビターが奉太郎にとって、引いては作品全体にとって重要なものであることは「灰色」という言葉が奉太郎のモットーであることからも間違いない)。
 しかし、実は第七話は、第六話『大罪を犯す』と併せてもう一度観返すと、実は更にビターな、或いは奉太郎の云うような「灰色」を描き出していることが分かる。どういうことか。第六話「大罪を犯す」は、えるが授業進度を間違えた数学教師に対して怒ってしまったのは何故かを探る挿話である。ここで重要なのは挿話の最後、見事に真相を解き明かした奉太郎の独白である。

「俺は千反田の何を知っているというのか。千反田の行動を読めることはあっても、心の内まで読み切れると考えては、これはアレだ、大罪を犯している。慎むべし、慎むべし」
(アニメ『氷菓』第六話「大罪を犯す」)

 この第六話の独白が、第七話でも(引いては作品全体の)通奏低音として響き続けている以上、それはあの最後に描かれた仲の良い(ように見える)姉妹の姿にも当て嵌まる。つまり、私たちはその内実を決して容易に決定は出来ないのだ。言い換えるならば、私たちはあの姉妹の光景について白黒を付けることも出来ないまま、まさに奉太郎が云う「灰色」でいざるを得ない、ということである。このように、『氷菓』は本来であればパラドキシカルな分岐を、見事に一つに折り畳み、「重ね合わせ(量子力学)」た物語として機能しているのだ。このような物語は、そもそも京都アニメーションの歴史の中で何度か触れたメタ、という言葉と結びついている。古典的メタフィクション研究の書物として知られるパトリシア・ウォーの『メタフィクション――自意識のフィクションの理論と実際』には、以下のような記述がある。

メタフィクションは、ある意味で、一種のハイゼンベルクの不確定性原理を基礎としている。それは、「物質の最も微小の構成要素の場合、各観測過程は大きな擾乱を惹き起こす」(ハイゼンベルク)、そして観測者は観測対象をいつも変えているから客観的世界を叙述できない、という認識である。しかし、メタフィクションの関心事はこれよりはるかに複雑である。というのも、自然の映像と言わないまでも、人間と自然との関係の映像は少なくとも叙述できる、とハイゼンベルクは信じているが、メタフィクションではこの過程さえ疑わしいことが示されているからだ。事物を「叙述する」ことはどうしたら可能なのか。メタフィクション作家は一つの基本的ジレンマをかなり意識している。それは世界を「再現」する仕事に着手したなら、その世界自体が「再現される」ことの不可能なことを即座に理解する、ということだ。文学フィクションで実際「再現する」ことが可能なのはその世界の言説だけである。それでも、言語の一連の関係をまさにその関係自体を分析の道具に用いて分析しようとするなら、言語はすぐに「牢獄」になってしまい、そこから脱出できる見込みはない。メタフィクションはこのジレンマを考察しようとしているのである。
(パトリシア・ウォー『メタフィクション――自意識のフィクションの理論と実際』、結城英雄訳)

 この「牢獄」にはもう一つの名前がある。それは「ゲーデルの不完全性定理」だ。そして、それに囚われながらもあがき続けてきた者たちの一人が「ミステリ」探偵(と、その作家)なのではなかっただろうか。何故なら、まさにこの「ゲーデルの不完全性定理」を引き合いに出して語られることの多い「後期クイーン的問題」は(無論、そのような問題は存在しない、と述べる方々がいることも確かだが)、その指摘がされて以降、常に「ミステリ」を悩ませ続けてきたものだからだ。ここでその問題を端的に纏めてしまえば、「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと」(第一の問題)と、そこから導き出される「作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非」(第二の問題)である。つまり、それは「探偵=作家」、ないし「推理=創作」におけるアイデンティティの崩壊だと言えるだろう(そして、それは「ミステリ」だけでなく、全てのジャンルにおいて――その筋道は違えども――ほぼ同様の問題を抱えて来たと言ってよい。「私たちには最早、語り得るものがない」、と)。それ故に、『古典部シリーズ』もまた、その系譜としての「ミステリ」という場で戦い続けている作品として位置付けることが出来るのではないか。何故なら『古典部シリーズ』の全体を見通すと、実は多くの挿話で、その形は違えどもある種の「密室」事件を扱っていることが見えてくる。彼らが拘泥するのは、この「密室」=「牢獄」なのである。その上で、奉太郎は、自身の「灰色」についての起源を持たない(彼は、自身のそのモットーが何故に生まれたのかについての記憶を持たない)まま「保留」し、しかしそれでも語り続けている。それは、ある意味で戦い続けることと同義なのだと言えるだろう(その意味では、同じような作家に西尾維新の名を挙げることも出来る)。
 勿論、だからと言って全ての結論は完全に「保留」にし続けることは出来ない。『古典部シリーズ』も、物語が進めばその結論=結末をやはり語り出すだろう。そして、それと同じように、いつかは『古典部シリーズ』にも「評価」が下される時がやって来る。
 しかし、どうやって?
 既に述べて来たように、『古典部シリーズ』で描かれている内容は、決してその内実を容易に私たちの主観で決定など出来ないものである。ここで私は、『古典部シリーズ』への「評価」は個人による読解によっては決定しない、などと言いたいのだろうか。まさしくそうだ。そもそも、あらゆる作品の「評価」とは、例えどれだけ優れた読解が存在しようとも、それが解釈である限りはそれのみに帰することは決してないのだ。しかし、それと同時に、世の中には名作と呼ばれる作品が存在しているのは歴とした事実である。では、それらは如何にして名作になったのか。その一例は、今回アニメ化に当たって表題に選ばれた『氷菓』、つまり第一話から第五話の部分にて描かれている。が、それを語る前に、まずはアニメ『氷菓』における真相への迫り方を追う必要がある。

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 前節までは、京都アニメーションの歴史における“光”から“音声”の発見を経て、『氷菓』が「ミステリ」であることを確認して来た。しかし、これだけでは小説『古典部シリーズ』が優れていることを示すのみで、アニメ『氷菓』が優れていることにはならない。ならば、ここからは予告した通り、アニメ『氷菓』が如何にして「ミステリアニメ」として成り立っているのかを、映像面を対象にして捉えて行く必要があるだろう。アニメ『氷菓』における第一話から第五話までは、この『古典部シリーズ』のアニメ化に当たって表題にも選ばれた原作の一冊目『氷菓』事件が描かれている(但し、第一話のBパートのみ、短編集である四冊目『遠回りする雛』から挿入されている)。ここで問題になるのは、如何にして京都アニメーションが小説『氷菓』をアニメ『氷菓』として翻案しているか、である。早速だが本題に入ろう。
 第一話の冒頭、部活勧誘に必死な「薔薇色」の高校生活を背景に、それとは全く違った手前のレイヤーを主人公の奉太郎がモノローグめいた語り(実際には、それは里志へ語りかけている)と共に歩いて行く。ここで移動する奉太郎は、評論家の柄谷行人の言葉を借りれば「風景」から切り離された、「周囲の外的なものに無関心であるような内的人間 inner man」(『日本近代文学の起源』)であると言える。そして、そのような「内的人間」において初めて逆説的に「風景」が、例えば一つの形としてはあの部活動に勤しむ「薔薇色」の背景として見出されるのだ。そこで、この奉太郎の画面の右から左への上手側の動きを、「風景」への観察と語りに関する運動性であると置いてみよう。例えばその後のシーンで、古典部部室に入った奉太郎はまさに上手から画面奥に立つえるを見出す。そして彼らが会話を始めると、更に階層化するように彼らを上手から観察していた里志が現れて千反田家の説明を行う、といったようにだ。その逆に、左側から右側への下手の志向は語り部への対応と、聴く/語らせる側である。第一に、アニメ『氷菓』の物語は、この左右の往復運動によって駆動されて行く。
 無論、全てがそのような左右の動きだけで構成される訳ではない。画面という二次元において左右があれば、上下の(それは同時に手前と奥の三次元でもある)運動もあるのが必然である。もう一度、奉太郎が里志に語り掛けるシーンへ遡ろう。前述した通り、ここでは上手から奉太郎が語り掛け、それを下手の里志が受けている。つまり奉太郎が語り掛ける一人称、聴いている/語らせている里志は二人称である。そして、奉太郎が「灰色の人間はいるんじゃないか?」と里志に問うと、カットは上下に里志と奉太郎を配置する形へと替わる。そして、そこから切り返すようにして視聴者と相対する正面に(気付かぬ内に)語られていた三人称の奉太郎が現れるのである。つまり、この画面中央の上から下、或いは手前から奥への志向の中に語られるべき対象が隠れていると捉えられるのだ。例えばその後すぐ直後には、門構えの中心、即ちまさに画面の中央下にえると奉太郎が部屋に入る様子が描かれているシーンがある。この古典部部室に鍵が閉まっていた密室の謎こそが、語られるべき謎=三人称であることは明白だ。更に解決部分まで続けてみよう。そこで見出された密室の真実とは、彼らがいた古典部部室の一階下で工事の作業員が部屋の鍵をマスターキーで閉めてまわる姿だった。これもまた、画面の下方に語られるべき真実が隠されていたということである。このような構図は、実は第一話から第五話まで徹底して貫かれている。例えば、第一話のBパートで教室で会話を繰り広げた三人は、「女郎蜘蛛の会」のメモを探しに階段を右回りの螺旋を描きながら降り(ここで上手から下手に逃げる奉太郎は、実際には音楽室の謎から逃げている)、一階昇降口の掲示板(画面下方)にメモを発見(捏造)する。或いは第二話の「愛なき愛読書」事件では、語り部の位置を避けようとする奉太郎は常に下手に逃げようとするも、えるに直接的に引っ張られたりカメラの位置が切り替わることで上手に立たされる。そして結局は語り部となった奉太郎が更に上手へ歩きつつ語り、それを聴くえると摩耶花は下手から追う。また、二人が美術室の中を覗き込む際に彼を追い抜くのは次の美術室内からのカメラが上手に奉太郎、下手に二人を捉えるためだ。続いて喫茶パイナップルサンドでの会話は、これまでと逆転し、語る(告白する)側のえるが上手、聴く側の奉太郎が下手に座っている。次で最後にしよう。第三話、壁新聞部では語らせる(古典部の文集『氷菓』の在り処を探す/訊き出す)三人が下手に立ち(加えて言えば、諦めようとする奉太郎は下手に逃げようとする)、それを隠す=語ることの出来る遠垣内が上手に立たされている。その中で文集は彼らの間、画面中央下である机の下に隠されている。そして、古典部の部室にて遠垣内の真相を暴き立てる際には無論、上手に奉太郎、下手に二人が立つのである。
 このようなアニメ『氷菓』の構図を簡潔な図にすれば以下のようになる。

聴き手(二人称)←                    →語り部(一人称)



        語られる対象(三人称)↓

 この図は、既に前節の確認した第六話「大罪を犯す」で奉太郎(一人称)は語られる対象(机の上に並べたクッキーで示される真相=三人称)は語り得ても、聴き手であるえる(二人称)の「内面」は決して読み切ることが出来ない、と述べていることをそのまま表していると言えるだろう。
 ここで、これを更にある一つのモノに見立ててみてはどうだろうか。それは開かれた本である。具体的には以下の画像に重ねて観る、ということだ。
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 すると、先程の図は、この画像を踏まえるならこうして書き換えるべきだろう。

未読の知られていない未来←                    →既読の知っている現在



             届けられるべき過去↓

 この三角形はこれまで観て来た通り、一貫してアニメ『氷菓』を形作るモチーフとなっている。それは細かな所では例えば、古典部の部室でえるが「不毛です!」と叫ぶ際に両手を上げて「Y」、或いは「V」の字を作るに至るまでの執拗さでだ。何故にそのようなことが必要なのか。それは前述した語られるべき対象と、この「Y」と「V」というアルファベットこそが、この『氷菓』の真相に最も必要なものであるからに他ならない。
 ここで説明しておくと、第三話(正確には第二話のラストからだが)以降の、つまり小説『氷菓』の本題、メインとなる謎は、えるの伯父である関谷純の『氷菓』に纏わる謎である。その真相は、過去に「優しい英雄」でと呼ばれた関谷が本当は望んでそうなったのではなく、生け贄となったこと。そして何よりも、彼が『氷菓』というタイトルに込めたメッセージ、「氷菓→アイスクリーム→I SCREAM=私は叫ぶ」であった。
 そう、ここで解き明かすべきは文集『氷菓』(それは引いては、実際の小説『氷菓』自体でもあるだろう)の背表紙や装丁に書かれている『氷菓』をアルファベットとして捉えることなのである(その意味では、あの「愛なき愛読書」事件で装丁が重要だというのも、メイン事件のヒントとなっている)。ここである補助線を、作中のアイテムから導いてみよう。それは第二話で奉太郎が読んでいる坂口安吾『堕落論』である。私は前節で一人の評論家の名前を挙げた。柄谷行人である。実はその著作に『坂口安吾と中上健次』というものがあり、彼はそこでこう述べている。

 安吾は探偵小説を書き、また探偵小説を書いただけではなく、「歴史探偵方法論」というものを書きました。古代史というものを探偵として見ようとした。そういう意味で、「探偵」ということが大きな要素となっています。「探偵」と呼ぶべき存在は、現実からではなく、ポーによって作られたと言ってもいいでしょう。[…]
 ポーの小説に『大渦にのまれて』というのがあります。船が渦巻きに吸いこまれて難破して、どんどん渦の中心に巻きこまれて行く。そのとき主人公は、容積の大きいものは流れが遅いということを見出します。これは「関係」の認識です。そこで彼は大きな木片にしがみつき、渦が終わるまでの時間を稼ごうとする。その結果、助かるわけです。この小説で「渦の中にいる」ということ、それを安吾の文脈でいうと、人間関係のムチャクチャなどろどろしたところにいる、つまり盲目的な場所にいるということと同じですね。したがって、われわれが生きているということと同義であって、そういう中で、意識化できるとこを意識化しようとする。だからといって、それでもって渦巻きを止めてしまうことはできない。しかし、その中においても可能なことはある。それは関係を考察することです。その関係を考察することで、渦というものから多少は逃れられる。それが詩を書くということの意識化とつながっています。
「探偵」というのは犯罪者を追い掛ける、捕まえるわけなんですが、罪というか、そういうものに何の関心も持っていない。ただ犯罪の形式に関心を持っているのです。捕まえること自体、あるいは罪そのものに何の関心も持っていない。だから、むしろ犯罪者が優秀であればいい。というより、探偵は犯罪者と同じようなものであり、もっとタチが悪いのです。犯罪者は罪の意識にかられることがありえても、探偵にはそれはありえないからですね。罪というようなことは意味の問題ですが、探偵はたんに犯罪の形式にしか関心を持たない。つまり探偵のあり方とは、意味でも無意味でもなく、非意味に関わるのです。安吾の言葉でいえば「ノンセンス」です。いいかえれば、ノンセンスとしての形式、これが探偵小説の発生にあります。[…]
 言語というものを、ふつうは意味という観点から見ていくんだけれど、活字という形態で見ますと、たんなる活字版ですから、意味でも無意味でもないわけです。ただノンセンス(非意味)なのです。

 […]彼の「堕落」という言葉も、そういう意味があると思います。「堕落」というのは、道徳的な意味ではたしかに堕落なんだけれども、倫理的にいえば、それはまさに本来的な場所に立つことであり、他者に出会うことなんですね。結局、関係の中にあること、その絶対的な関係の中にあるということ、それが「人間」を知ることだとなっているわけです。ですから「人間」の考えていることを知るとか、どういう女がいるとか、どういう男がいるとか、そんなことを彼は少しもいっておりませんね。「人間」を知るということは関係の絶対性を知ることであると、ほとんどそう換言してかまわないでしょう。
 それは『文学のふるさと』というエッセイなどでも基本的にそうです。ここで引用してみます。《私たちはいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかし透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか》と。またさらに《モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度だとは思いません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性というものは、この「ふるさと」の上に立たなければならないものです》と書いている。彼は「突き放される」という言葉を使っていますが、何が突き放すのか。突き放す何かとは、いわば〝他なるもの〟です。他なるものに突き放される。それこそが「文学のふるさと」だ。他なるものに出会うこと、それが安吾の言葉でいえば「堕落」なのです。ふつうの「堕落」という言葉の使い方とは明らかに違います。

 ここで安吾と言葉について考えてみます。たとえば安吾は「人間」といっており、言語は二の次であるかのごとく考えているように見えるかもしれませんが、それはむしろ逆だと思います。既にポーのことで話したけれど、安吾のそういう認識は、おそらく人間よりも言語の体験から来ているのではないか、と僕は思うんです。安吾の中で最も大きな体験は、そういうことだったはずです。彼は、二〇歳くらいのころ東洋大学で猛烈に仏教の勉強をしたのですが、悟りも開けないし、悟りなんていうのはよくわからない、結局ひどい神経衰弱に陥った。そのとき彼は、アテネ・フランセにフランス語を勉強しに行くわけですね[…]
 言語の他者性といいますか、外部性というのを体験するのは、母国語では絶対ないと思います。母国語というのは必ず意味というか、思考のほうが優越している。思考があって言語がある。ほとんど、そうなってしまいます。ところが、外国語というのはそうじゃない。まさに形式のほうが先にあるわけですね。[…]
 これは、いわば意味を徹底的に捨てていくことにほかなりませんね。安吾の小説でいえば、『白痴』になることです。彼の文学の第一の出発点はファルス論だけれど、これは彼のいう女性体験が始まる前です。したがって、安吾にとって他なるものとは必ずしも女性ではなくて、むしろ言語であるといってよい。「人間を知ることは」と言う場合の「人間」の中に、明らかに言語の問題が入っているのだと思います。それはしかし、人間というのは言語に過ぎないというような、昨今の、それ自体すこぶる呑気な考えとは別であると思うのです。
(柄谷行人『坂口安吾と中上健次』より「安吾その可能性の中心」)

 些か長くなってしまったが、『氷菓』を語る上で必要だと思われる部分を全て引用すると、このようになってしまわざる得なかった為、ご容赦願いたい。
 さて、柄谷が述べている内容には、ここまで述べて来たこと、そして何よりも『氷菓』での様々なシーンを思い起こさせるような示唆的な言葉が多く含まれていることは、ここまで読んで来て頂けた読者の方々には容易に理解出来ることだろう(例えば、『氷菓』で言うなら海外――しかも、多くは紛争地帯など――に旅行に行っている姉だ)。
 奉太郎(そしてウォー)の言う通り、語り部(一人称)は、聴き手(二人称)のことを絶対のものとしては語り得ない。そこから「突き放される」ことを前提に、語られるべき対象(三人称)のある下方へ「堕落」して行かなければならないのだ(その意味では、実は奉太郎こそが、例えば柄谷の云うように、盲目的に現在と戦う者=“道化 FARCE”だと言えるだろう)。そして、そこにあるのは意味の優越する母国語ではなく、外国語=アルファベットとして表象される「関係」性なのである。そうすることでアニメ『氷菓』は「I SCREAM』(過去)を導き出すことが出来る「ミステリアニメ」として成り立っている。
 確認になるが、ここで私はアニメ『氷菓』について、このような映像的な、言い換えれば非意味な形式にのみ淫するべきだと述べている訳では決してない。ただ、そのような地平において初めて逆説的に二人称(未来)に届き得る/届かせ得る、ということだ。それはあたかも「風景に無関心なように見える内的人間」において初めて逆説的に「風景」を発見出来るように、である。
 今節の最後に、これまでは「空間」にばかり触れて来たので、「時間」についても触れておこう。えるが思い出せなかった伯父との思い出、それは如何様にも分岐する秘められた過去である。しかし、それはいつかは決定されるものである。それがどうやって決定されるかが、第一節の最後に私が提示した謎であった。ここまで来れば、それは簡単に理解することが出来るだろう。それが「時間」なのである。本作において「時間」はえるが伯父との思い出を“忘れる”ことで成り立っている(いや、そもそも「時間」とは忘れる中で生まれるものなのではないだろうか。フロイトの「マジックメモ」は、そのようにも読めるのではないか)。これもまた、意味を捨てて行く行為に他ならない。私たちはある作品に対して多様な意味=解釈を、それこそ無限に読み取ることが出来る。しかし、それは時間と共に消えて行き、まるでSFにおける並行世界が収束するかの如く、事実に対してそれに相応しい「評価」が与えられるのだ。よって、私は何かを「名作だ」、「これが真実だ」と声を挙げることが無意味だ、などと諦観めいた発言をしたい訳ではない。ただ、それはその場限りの一人称単数で決まるものではなく、もっと複数的に、時間を掛けて決定されるというだけだ。芸術作品、例えば音楽や絵画において、作者の死後にそれが「評価」されることも多かったことを考えれば、それはただ当り前のことなのである。そのような「灰色」を前提に、私たちは叫ばなければならないのではないだろうか。

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 アニメ『氷菓』はここまで観て来た通り、その本自体を映像に置き換えた見立てとして翻訳されている。つまり、このアニメを満たしている“何か”とは(というよりも、この作品自体が)本そのものであり、言い換えればそれは“文字”だった。それ故に、今作では京都アニメーションではこれまで観られなかった“文字”を使った演出が多用されるのだと言えるだろう。そして、それを可能にするのが綿密なコンテワークと演出である。
 最後に、「空間」を満たす“文字”について、少しだけ話を延長しよう。何故なら、左右(一人称と二人称)と下方(三人称)の話はこれまでして来たが、上方への志向の問題はこれまで意図的にではあるが避けて来ているからだ。それでは「空間」が成り立たないことは言うまでもないだろう。
 アニメ『氷菓』のOPでは、波紋の演出が多く使われている。具体的には冒頭の灰色の世界にいる奉太郎を波紋が色付けていくシーンのように、このアニメの「空間」を何かが満たしていることはここで視覚的にも理解出来る(また、アニメ本編においても、例えばコーヒーを混ぜるなどといった、水面を攪拌する動きは至る所で見受けられる)。このような波紋が、ウォーの云う「擾乱を起こす物質の物質の最も微小の構成要素」や、ポーの「大渦」と同義であることは明白である。そして、それはこれまで確認して来た通り、“文字”であった。その時、一人の作家の言葉を私は思い返さずにはいられない。

 書かれた文字は遺伝される物質体だ。言語はエーテル体であり、本の生命だ。物語はアストラル体。歓喜と苦悩を語り、様々な「登場人物」を描写する。自我は全体の理念である。この理念は別の文字や別の言語、そればかりか他の物語でさえ実現されうる。高次の自我は、これら全ての背後に立つ詩人である。――ミヒャエル・エンデ

 そう、“文字”とは“エーテル”なのではないだろうか。

アリストテレスの世界像を根底から打破しようとしたデカルトは、やはり真空の存在を認めておらず、物質の粒子の間をうめるものとして「微細な物質」を想定し、その動きもしくは働きによって光が伝達されるとした。また近接作用のみを認めたデカルトは惑星は流動し渦巻く物質にのって運動していると考えた。これが後に物理学におけるエーテルの概念へと発展した。この意味でのエーテルは天上の物質ではなく、世界のあらゆるところに存在する。

一方、化学におけるエーテルは、今日でいうジエチルエーテルが発見された際に、その高い揮発性を「地上にあるべきではない物質が天に帰ろうとしている」と解釈されたことからその名が付けられた。
(Wikipedia『エーテル(神学)』)

 京都アニメーションが「空間」を満たすものとしての“光”から“空気”を見出したことは最初に触れた。そして、それと同時に彼らが常に俯瞰する位置(メタ)への志向を持ち続けて来たことも。だとすれば、“エーテル”は、このような京都アニメーションの志向と極めて親和性の高い、必然として見出されるべきものであったと言えるのではないか。私たちは、ここで京都アニメーションが描こうと、撮ろうとしているのが“エーテル”に満ちた宇宙なのだと結論付けることが出来る。
 例えば、古典部の部室には、実はそこにあるには相応しくないものが多く存在している。それは、地球儀やロケットのポスターなど、どちらかと言えば天文部などにあって然るべきそれだ。また、EDにおいて、えると摩耶花、少女二人の煌めいた「空間」は、まさに“エーテル”の特徴である「つねに輝きつづけるもの」として描かれる必要性のあったものである。EDで描かれる「消えることのない輝き」にこそ、エーテルは最も分かりやすく現れているのだ。

 勿論、現在の私たちは上記のようなエーテルが現実には存在しないことは知っている。しかし、小説やアニメなどのフィクションを描く場合に、それに如何ほどの意味があろうか。小説家であり、評論家のミラン・クンデラはこう書き記す。

 フィールディングはありえない、もしくは信じられない物語をでっち上げることはしなかった。それでも、みずから話すことの本当らしさなど、彼の顧慮するところではなかった。彼は現実性の錯覚によってではなく、みずからの作り話、意外な観察、みずからが創り出す驚くべく状況などの魔法によって聴衆たちを幻惑したいと欲していた。逆に、小説の魔術が場面の視覚・聴覚的な喚起に存ずるようになったときに、本当らしさは規則中の規則になった。すなわち、自分に見えることを読者に信じさせるためには必要不可欠な条件に。
(ミラン・クンデラ『カーテン 7部構成の小説論』)

 彼は19世紀から「リアリズム」が「それに先立つ数世紀の小説をなかば忘却のヴェールで覆い隠し、小説の未来の変化を困難なものにすることになった」と語る。それは、私がこの記事のエピグラフに選んだ坂口安吾の『FARCEに就て』でも語られていることだ。最後に、その文章を引用してこの記事を締め括りたいと思う。

 ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである。ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらに又肯定し、結局人間に関する限りの全てを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。諦めを肯定し、溜息を肯定し、何言ってやんでいを肯定し、と言ったようなもんだよを肯定し――つまり全的に人間存在を肯定しようとすることは、結局、途方もない混沌を、途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに呑みほすことになるのだが、しかし決して矛盾を解決することにはならない、人間ありのままの混沌を永遠に肯定しつづけて止まない所の根気の程を、呆れ果てたる根気の程を、白熱し、一人熱狂して持ちつづけるだけのことである。
(坂口安吾『堕落論』より「FARCEに就て」)

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  • 2015/06/08 16:51
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まとめ【アニメ『氷菓』を満た】
 単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい。――坂口安吾『FARCEに就て』    
  • 2012/10/27 12:20
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