てらまっとさんの『ツイ天論』を読んでの感想。

  • Day:2011.12.10 10:23
  • Cat:日記
 今回の記事は『セカンドアフター』という本に寄稿されているてらまっとさんの『ツインテールの天使論』を読んだ僕の感想(と、自分語り)である。
 この長い記事自体は読んでくれなくて一向に構わない。
 ただ、これだけの長文を書かせるだけの熱量をそこに感じて、興味を持った人がもしもいたならば、下記のページから当該本を購入することを検討してみては如何だろうか。
 それだけが、今回の僕の願いです。
『セカンドアフター』コミックジンでの委託販売ページ

 さて。
 てらまっとさんによる『ツインテールの天使論』、通称『ツイ天論』はまず「終わりなき日常」の終わりを端緒にたったひとつの私の「終わり」を考えてみよう、と始まる。
 彼はモーリス・ブランショ氏の「恋人たちの共同体」を引きつつ私が「終わる」ことが出来るのは看取ってくれるあなたの「愛」があるからだと述べている。
 そして、それはキャラクターには担えないことだと彼は言うのだ。
 つまり、キャラクターには決定的に有限性が欠けており、人とキャラクターの間には非対称性という深い溝が横たわっているが故にである。
 それを彼は「喪失の喪失」と呼んだ。

 これに関して僕はまず、キャラクターとは何かを考え直すことから始めた。
 僕はミラン・クンデラ氏の『カーテン 7部構成の小説論』と伊藤計劃氏の『伊藤計劃記録 第弐位相』を引き合いに出し、キャラクターとは過去であり彼岸である、つまり死者であると定義した。
 死者は二度死なない。これが本質的なキャラクターの傷つかなさ=死なない身体の正体ではないかと、僕は考えたのだ。

 しかし、彼はそうした非対称性を認めた上でそれでも尚、僕らに蜘蛛の糸の如く垂らされた可能性を見い出す。
 それを彼は「日常系」の分析から『けいおん!』の読解、ヴァルター・ベンヤミン氏の「アレゴリー」と幾つかのアートを経て「天使にふれる」行為と呼んだ。
 そしてそこに「一人称複数」があるのだと。

 では、そもそも「日常系」或いは「空気系」とは何だろうか。
 それを彼は『アニメルカvol.3』「収斂する欲望――アニメというマトリックス」から「女性キャラクタ―の恋愛対象となるような男の子、日常生活を妨げる敵、あるいは葛藤や自意識の問題といった内面的な障害は全て作品世界から取り除かれ」た作品だと言う。

(また、彼はtwitterでの発言において「日常系とはセカイ系との緊張関係(対立ではない)にあるもの」としている。それ故に、『サザエさん』は「日常系/空気系」には成り得ない、と。
 これに関して、僕なりの解釈を施せば、「日常系」が核家族化や近所付き合いの減少、そしてインターネットの発達によって裏付けられている「セカイ系」との表裏一体の存在であったと考えている)

 なるほど。これに関して僕は――最早まるで好きな女の子にちょっかいを掛ける小学生のような形ではないか思われるw――外山滋比古氏の『第四人称』(それは彼の言う「一人称複数」と呼応する)という本を持ち出そうと思う。
 つまり「日常系における男子の排除された空間」は即ち、「カタルシスはアウトサイダーである観客でなければ得る事が出来ない」からだ、と。
 つまり、それがある意味で効率的な形だというのは納得のいく話なのではないだろうか。

 また彼は「日常系」を自らの「終わりなき日常」を二重化、拡張現実化する為の要請によって生まれたモノだとし、その生の作法=萌えを「コピーにアウラを宿らせる能力」(出典「謎解きの世界――法月綸太郎との対話1」『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』)だと言う。
 そしてそれがジャン・ボードリヤールの言う「シミュラークル」の上で「果てしない横滑りの恍惚に身をまかせることにほかならない」と述べるのだ(ここら辺は概ね、東浩紀氏などの関連著作を引いていると思われるのでそちらも参照?)。
 しかし、その次に彼はこう付け加える。「その先に終わりが待ち受けている」と。

 そのような中で論考は『けいおん!』の読解へと足を踏み入れる。
 彼は『アニメルカvol.3』の「『けいおん』の偽法――逆半透明の詐術」を引いて、二期では梓による主観視点=「あずにゃんカメラ」が強調されていることから梓の「見送る/追い掛ける視点」が視聴者とシンクロすることを示す。

 ここで僕は主観視点、或いは主人公とは何かを考えた。そこには「物語」とは何かという問題も纏わり付いて離れない。
 ここでもう一度、『第四人称』に戻る。外山氏はアリストテレスのカタルシス説を引き合いに出しながら人は反社会的な、禁じられることにこそアウトサイダーな興味を覚えると言う。
 そこで忙しないが『ツイ天論』に引用されている「『けいおん』の偽法」を参照しよう。
 そこにはこう書かれている。
「もともと梓は実直に音楽に取り組む姿勢を持つ、反・空気的な存在として放課後ティータイムに緊張感をもたらす役割を担っていた。」
 つまり梓は視聴者に親和性の高い位置にいたのが分かるだろう。
 そこで立ち現われてくるのは、梓は放課後ティータイムという(極小の)社会への介入者であったということだ。

 ここで思い出して欲しいのはこれまで数多の作品が描いて来た主人公と物語の関係性である。それはまず、先に挙げたカタルシス説にもある通りの「介入/破壊」ではないだろうか。
 例えば(J)RPGはこれまで「攫われた姫を助けに勇者が魔王を倒しに行く物語」とされて来た。
 しかし、果たしてそれは本当にそうだったのか。
 寧ろ、「姫を攫った魔王が世界を征服する物語」を勇者が介入、破壊するストーリーだったのではないか。

 では、この定義は何を可能にするだろうか。
 それは端的に言えば「『けいおん!』に物語がある/ない」論争からの脱却である。
 そして(自分でも恥ずかしくなるような吹聴をすれば)描かれる対象としての「物語」の解放でもある。
 つまり「物語」とは主人公に介入され、抗われるモノではないかとすることで僕らは対象に描くモノをどんなモノからでも自由に選べるのだ。

 例えば、『けいおん!!』で言えば主人公の梓は放課後ティータイムという小さいけれど、しかしそこに確実にある一つの社会に介入し、破壊を試みる存在だったのではないだろうか。(ちなみに、『けいおん!』においてこの役割は唯に割り振られていたと言ってよい。彼女だけが音楽に対してアウトサイダーだったのだから)

 しかし、ここでこのようなツッコミが為されることは容易く予想される。
 梓は『けいおん!』の何を破壊したか、と。確かに梓が破壊し得たモノはない(ように見える)。
 だが、思い出して欲しいのはこれまで描かれて来た多くの作品が全て破壊に成功しただろうかということだ。
 残念ながら僕はそう思わない。
 寧ろ、多くの名作と呼ばれる小説や映画の中で社会の中で抗い切れずに屈服する、或いはただ眺めるだけの主人公の姿を目にして来たのではないか。
 では、これらの違いは介入するモノの大きさだけであり、そこでは寧ろ細部に渡る描写のクオリティでこそ比較検討がなされるべきなのではないだろうか。
 ただまぁ、人は大きなモノには憧れとか畏敬の念を持ち易いのは確かだろう。そういう効果的な事を効率良く使おうとすることには全く問題などありはしない。しかし、逆に小さな米粒に達筆な文字を残すことにも感動は絶対にある筈なのだ。
 そういう意味ではもう一度、『カーテン 7部構成の小説論』から第Ⅱ部「世界文学」を持ち出したい。
『第四人称』では「アウトサイダーはインサイダーよりも早く客観的事実を下すことができる」としていたが、クンデラ氏もここで小さなコンテクストを離れ、大きなコンテクストを見渡すことで美的価値すなわちその作品が解明しえた実存のそれまで未知だった側面、見いだしえた形式の革新性を現出できるのだ、と述べている。

 話を『ツイ天論』に戻そう。
 彼(そういえば、言うのが遅くなりましたがこの一連の連投で彼、と使う時は全部てらまっとさんを指します)は、梓と視聴者がシンクロしていた=「天使にふれ」ていたとして、そこから最終話で現れるHTT結成時の写真に梓の切り抜きが張られた写真の読解を試みるのだ。

 ここで彼は『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』を引きながら梓は記憶喪失の天使だったのではないかと提示する。
 そこには「神学的奇跡」と「確率的奇跡」の「二つの奇跡を交換するというチート」が働いているのだと。
 元々、この「交換」は村上裕一氏が『Kanon』のあゆを題材として主人公の相沢裕一が「幽霊のあゆと再会したこと」(=起こり得ない神学的奇跡)と「昏睡状態のあゆが目覚めたこと」(=可能性の低い確率的奇跡)が天使人形という媒介を通して可能になっていたことを指す。
 それを彼は『けいおん!!』に応用しようと提案しているらしい。それは一体、どういうことか。

 つまり、元々が梓は一期からHTTを覗くカメラとして存在しており(これが写真に一期の始めに撮ったモノが使われた根拠となる)、それがあたかもヴィム・ベンダースの映画『ベルリン 天使の詩』のように、(我々の視線の顕現として)天使のように舞い降りた(=神学的奇跡)のだと言うのだ。
 では、確率的奇跡とは何か。それは『天使にふれたよ』という楽曲を媒介として為される梓の「あんまり上手くないですね!」という唯が一期で放つ台詞とのシンクロだ。
 彼はその他に『Air』のそらを挙げていて、僕も『CLANNAD』の風子の反転として京アニの文脈上に載せることが出来ると思う。

 また、カメラ=視点という意味から『第四人称』に戻り、次の一文を引用しよう。
「第一、第二、第三人称はインサイダーを形成し、第四人称はアウトサイダーを形成する。アウトサイダーをインサイダーに結び付けるのは、第四人称である。」
 つまり梓という第四人称を通して常に視聴者は作中に存在したのだ。

 彼はこの行為をシミュラークルとデータベースの往復が停止し、キャラ萌えが機能不全に陥る状況であるとした。そして、そのシミュラークルではない「終わり」によって反転する「救済」をヴァルター・ベンヤミンの言葉から「アレゴリー=[寓意]」と呼んだ。
 しかし、果たしてこれはそうなのだろうか。

 どういうことかというと『けいおん!!』のこうした構造こそが寧ろそのデータベースの受け手の往復を正しく行っていたように見えるからだ。視聴者は作品を通してHTTのメンバーを見つめ(=データベースからの動き)、最後にHTTのメンバーを見送っていたのではないか(=データベースへの動き)。

 ここで実は僕と彼の見解は少しズレている。
 彼はこのようなデータベースとシミュラークルの間の往復二層構造が原理的に「終わり」を扱えないとしているが、僕は寧ろ彼の「横滑り」という単語が端的に表わしている通り、そこでは往復運動の機能不全が起きていたのではないかと解釈しているのだ。
 さて。ここで彼の言う「アレゴリー」の話に目を向けつつ、このズレがどういうことかを探って行きたい。

 彼はベンヤミン氏の著書『アレゴリーとバロック悲劇』から「事物の世界において廃墟であるもの、それが、思考の世界におけるアレゴリーに他ならない」という文章を引いている。
 そして氏の「子供部屋/亡霊の部屋/魔術師の部屋や錬金術師の実験室の、断片的なもの、無秩序なもの、積み重ねられたもの」をオタクの部屋と結び付けるのだ。
 その中にちらばる膨大な瓦礫の山は、その最期の瞬間に「復活のアレゴリー」へと反転するのだ、と。
 これに対して具体的な作品を挙げることで僕と彼のズレを分かり易くしたい。

 それは『鋼の錬金術師』である。
 ここまでの話を鑑みれば同作品の錬金術=「理解/分解/再構築」がまさしく彼岸であるデータベースとのやり取りであったことは分かるのではないだろうか。そして、作中にはこの往復を阻害するモノが存在する。

 それは「等価交換」だ。このルール(と、それに纏わり付く死者の復活への欲望)こそ「終わりなき日常」という幻想だったのではないか。

 しかし、厳密に考えれば人は「等価交換」などという行為を作品と為すとは考えにくい。
 人は、一つの作品を受容した上でそれをそのまま「等価」で差し戻すことなどあり得ないのだから。
 そこにはそれぞれのフィルターを通して何かしらの「肉付け」が為されてしまうモノである。
 しかし、「終わりなき日常」という幻想はそれを可能にして“しまった”。

 ここに至って、これを彼の言う「横滑り」と同一に看做すことは不可能だろうか。まあ、これに関して自分で客観的判断は(字面だけ見ても当たり前のことだがw)不可能なのでこのまま話を続けると、僕が何を言いたいのかと言えば実に簡単であり、呆気の無いことだけである。

 それはそもそもデータベースと視聴者の間で行われる往復行動が崩れることなどあり得ず、しかしただその周りに「終わりなき日常」という歪んだベールが覆い被さることで機能不全を起こしていたのではないか、ということだ。
 故に、これはそのような下らない幻想を持たない方々には「は?」となるだろう。
 しかし、これは決しておかしなことではない。
 つまり、クンデラ氏の『カーテン』から言葉を借りるならば、「小さな、ローカルなコンテクスト」に捉われることで「大きな(世界文学としての)コンテクスト」における芸術的価値を見逃していたということだ。
 それは年代的、地域的、そして確率的な要素において、である。僕が言いたいのはそれだけなのだ。

 この「確率的」というのは非常に重要である。何故ならそもそもこの『ツイ天論』の発端である「終わりなき日常」の終わり、とは「それぞれの日常が確率的に終わったり終わらなかったりするモノ」へ「ばらばらになってしまった」ことだったのだから。
 つまり、これは変えようのない事実な筈である。

 だから、僕は彼の言う「シミュラークルの上で横滑りをする」を「往復運動が機能不全だった」と、「往復運動が停止し、アレゴリーへ反転する」を「往復運動が機能している」と言い換えているだけに過ぎないとも言える。
 それ故に、この論考には大いに賛同しているのだ。勿論、それは僕の主観なのだけど。

(ここで論考はアレゴリーから幾つかのアートへと触れるが、僕はアートに関しては門外漢であるし、恐らくそれを真面目に勉強するには時間も気力も足りない。遊び半分で立ち入る訳にはいかないのでスルーさせて頂きます。ただ、ある程度は僕のここまでの文章でどうアレを見てるかは示唆出来てると思う)

 だから、結論としては(主観的には)同じような位置に辿り着ていると個人的には感じている。
 なので、論考が最後に触れる「ルイズコピペ」から僕も僕個人としての纏めへと入って行きたいと思う。
 彼はその18連からなる文章を三つの段階に分けている。

 それはまず、第1~7連に渡る「ルイズたん」への萌え部分である。
 続いて第8~12連へのキャラクターと自分の非対称性への気付きだ。
 ここでコピペ主は一度、全てを放り出そうとしている。しかし、最後に18連までにおいてそれは偏在する「ルイズちゃん」に見られていることをきっかけにして自己の生への肯定と祈りを捧げ始めるのだ。
 これは確かに感動的である。

 この三段階は『鋼の錬金術師』における「理解/分解/再構築」でもあるが、もっと普遍的な語り口に置き換えてみたい。

 それはまず第一段階がキャラクター、つまり死者、過去、彼岸のモノであるということだ。
 人はキャラクターを通してそのような存在へ「萌え」ているのだ。しかし、そこには絶対に届かない溝がある。

 では、それが現れる第二段階は何であろうか。
 そのヒントは論考でも引用された『ゴーストの条件』にある。
 村上氏はその著作の中で柄谷行人氏の『探究Ⅲ』と伊藤剛氏の『テヅカ・イズ・デッド』を引きつつ「固有名の問題」としている。それはまず柄谷氏の「牛を固有名で呼んでいる者にとっては、それを殺すことは困難であろう」という部分から、「あるキャラクターが物語中で死ぬ、殺される、傷つく、あるいは作品が終わる、作品外にて不当な扱いに晒されるなどしてそれを「いたむ」とき、そこにはすでに固有名の問題が立ち上がっている。」としている。
 そして村上氏は『テヅカ~』から「『絵ものがたり 正ちゃんの冒険』における“コードの違い”」を引き合いに出してキャラクターとキャラの違いを提示する。
 そこでは「固有名を名付けたくなるかどうか」が問題とされる。

 ここで僕は先の論考で挙がっていた『けいおん!!』が格好の例題であると思う。
 果たして、最終回を迎えた視聴者が作品の、HTTの終わりを「いた」まなかっただろうか。否、「いた」んだ筈である。
 それは次の週にエア実況を試みる程に。

 であるとするならば、先のコピペにおける第二段階とはまさにキャラクターの中からキャラが「キャラ立ち」する瞬間を捉えたものだと言えるのではないだろうか。
 そうだ、第二段階とはキャラの層なのだ。
 これは先の『第四人称』とも同調する。人は、禁じられたことにこそ興味を惹かれるのだから。そこには「終わり」に際した人々の「いた」みがあり、そこに「固有名を名付けたくなる」。

(ここで、厳密にキャラとキャラクターを分ける明確な線引きは僕には出来ない。しかし、その手段においては一つだけ考え得る手段――他にもあるだろうけれど――を提示出来るかもしれない。それは、まず第三層の話を終えてからにしようと思うのでここでは保留)

 さて、ここで前景化して来るのは「作品の終わり」こそが受け手の「終わらせたくない」という感情を駆り立てるということである。
 それはデータベースと受け手の往復運動が実は互いの相反する矛盾による綱引きによって行われる、ということである。
 しかしその中で、人は「終わり」を「確率的に」受け入れる。
 どういうことか。

 ここで僕はなるべく分かり易い例となるように最近の作品から一つを選びたい。
 それは『魔法少女まどか☆マギカ』である。同作はまさに作中においてキャラクターたちが視聴者に「いた」まれてしまうような境遇に立たされていた。そして、それ故に人々はその二次創作に走った。
 その中で二次創作の仕方は様々だ。彼女たちが本編とは違う、ほのぼの日常生活を送るモノもある。それは「終わりなき日常」かもしれない。

 しかし、人によっては(例えばさやか)がどうすれば「もっと別の終わり」を迎えられたかを必死で考察しているのをそこかしこで目にすることは可能な筈である。
 そこには最早、確率的な分かれ道しか存在しない。

 しかし、こうした(口コミまで含めた)二次創作というデータベースへの受け手の返答の中でこそ、人は偏在するキャラによる眼差しを発見し、己の生の肯定と祈りを捧ぐことを可能にするのではないか。
 そう、まさにそのようなまなざしとは「偏在する」データベースの中に送り返されたキャラから発するのだと思う。

 それを村上裕一氏は『ゴースト』と呼んだのではないだろうか。
 なるほど、であればキャラクターからキャラへの変遷時に「死/終わり」を経ていることはまさに文字通りの意味であったのではないだろうか。
 これで第三層も明らかになった。それはゴーストの層である。

 この層に至って初めて、人は自己の肯定と祈りを捧げるのではないか。
 しかし、死者に向かって?
 ここでもう一度、今度はゴーストについて考えを巡らせる必要が出て来るように思う。
 そこでは過去と死者以外の存在が蠢いているのだ。それは果たして何か?

 それは未来であり、まだ見ぬ子だ。
 まず単純なことをいえば、登場人物とは作者の「子」であり、それを読む事で人は他人の(つまりあり得たかもしれない)生を体感出来る、そしてその二次創作を行うことで更に我が子となすだろう。これらを抉っていたのが今年であれば『C』や『アスタロッテのおもちゃ!』であると思う。

(作品各論は求められていない――というか、この話自体が誰にも求められていないがw――からスルー)

 人は、(基本的には)自身の子を生む時にその生を肯定し、その子が同じく幸せな人生を送ることを「祈」らざるを得ない。
 これが逆説的に、人々というデータベースにそれぞれ宿ったゴーストが人に自身の生を肯定させるのではないか。
 勿論、先程から述べているようにそれは「確率的」ではあるけれど。

(ここでてらまっとさんが言う「我々は一貫して愛と死の問題について論じる」という部分に回帰する。僕はこの連投を纏める前の下書きにおいてミステリというジャンルに僅かに触れたが、ここで思い出したいのは舞城王太郎氏である。氏の『好き好き大好き超愛してる』はこのような文で始まるのだ。「愛は祈りだ。僕は祈る。」と。

 さて、では保留にしていた「キャラクターの終わらせ方/死なせ方」とは何かについてだ。
 僕はこれに関して最も適当な例は初音ミク(或いは御三家)だと思っている。
 しかしここまでで述べて来たのは普遍的な芸術的価値は変わっていないということであった筈である。
 それにしては最近のモノばかりすぎる。

 故に、ここで僕は初音ミクの対する一つの物差しとして『天~天和通りの快男児』から赤木しげるを持ち出そうと思う。
 それは「初音ミクの消失騒動」と『天』における最終章――所謂、通夜編に見られる大きな共通点である。

 それは記憶の忘却だ。
 赤木しげるはアルツハイマーから自身の死を望んだ。
 赤木は「神域の男」とまで呼ばれる悪魔的な麻雀打ちであり、その圧倒的な強さは作品の至る所で受け手に強調された。
 その度に、人々は赤木のファンになっただろう。しかし、繰り返される対局は、つまり一つの「終わり」を意味しないだろうか。
 これによって情報量が人々に蓄積されて行った。
 しかし、それは余りに不確かなモノであるだろう。
 その許容量を超えた時、人はそれを剥がれるように忘れて行くのだ。
 そう、ここで明らかになるのは登場人物の記憶は受け手という外部記憶装置に保存されているということだ。
 それが剥がれ落ちること、これこそが赤木のアルツハイマーの正体なのではないか。

 この事は初音ミクと呼応する。
 数々のオリジナル曲が作られることで人々はその度に感動して行っただろう。
 しかしニコニコのマイリストは有限だ。
 そしてそれ以上に人々の脳は有限である。感動の記憶はところてんのように押し出される。
 その中で、初音ミクもまた神域へと近づきつつ、自身の記憶を失ったのではないか。
 そして、奇しくも人々の目に分かりやすい形であるインパクトは訪れる。
 それが2007年の「初音ミク消失騒動」だ。

 また、この事件に対応する楽曲『初音ミクの消失』こそ赤木しげるの安楽死宣言と相似形のモノだと言えるのではないだろうか。
 ここでミクはまるで赤木が「飛散」したように偏在化したのだ。

 そして、その後も両者は相似形であり続ける。赤木しげるは吉祥寺に墓が建てられ、そこにまるで本物の人が眠るかの如くファンが殺到した。またスピンオフとして『アカギ~闇に降り立った天才~』も開始されている。
 初音ミクはライブでまるで実在のアイドルのように人を呼び、亞北ネルなど亜種を生みだした。

 ここで重要なのはてらまっとさんが『ツイ天論』における「ルイズコピペ」についてで作中人物の呼称が「ルイズたん」から「ルイズちゃん」に変わっていることを指摘している点だ。
 これは「赤木しげる」と「アカギ」の違いに他ならない。

 このような変化は『アイドルマスター』における春香がアーケードからコンシューマへの変遷で一時的に所謂「メインヒロイン(笑)」の立ち位置を与えられながらも「閣下」や「ののワさん」として生まれ変わったことなどに対応する。

 これで「いたむ」とはどのような場合かも明らかになるだろう。
 それはつまり、登場人物の存在の根幹が危うくなった時である。
 それは記憶が人物単体ではなく「第四人称」として我々と共有していることを理由にしている。
 そういう意味では『東方』が出る度にキャラ数が更新されることも同一に看做すことが出来るだろう。
 毎年のキャラランキングはそうした争いである。

(本当はここで幾つかニコニコ動画にある『東方』や『アイドルマスター』の二次創作作品に関して言及したいが……ちょっとネタばれは控えるべき作品ばかりだし、やはり作品各論は――というか、この議論自体が――求められていないのでまたもやスルー)

 つまり、何度も言って来たが(ディズニーや任天堂のようなマスの力が無い限りは)どのようにせよいつかは作品の「終わり」に直面せざるを得ないのだから、単純に良い作品を作る事を志向すればキャラクターはキャラを経て、ゴーストへと至るのだ。
 昔から芸術的価値は変わってなどいないのだから。ただ、それを見失うことはあっても。

 二次創作が行われるというのは、ただ「その場がある」という“認識”によってに他ならない。無かった時は、ただそれを口々に語るしかなかった。しかし今は、ニコ動や2chがある。
 ただそれだけだ。
 よく「隙間がある方が二次作り易い」と言われるけれど、見付けようと思えば隙間など幾らでも見付けられる。
 勿論、その効果(?)があることは認められるが、だとすれば例えば『アイマス架空戦記』でアイドルたちが戦国時代や三国時代に引っこ抜かれることの説明が付かない筈だ。
 登場人物だけを引き抜いてしまっても良いのだ、という“認識”こそがそれを可能にしているのではないだろうか。
 それを例えば具体的な作品で語るならば『Fate』の聖杯戦争という想像力に大きく関係していたのだろう。

 さて、後半は蛇足と(いや、全部がかw)と思われたかもしれないが、一応最後に本当の纏め。
 人々はゴーストを媒介にして自ずから「物語」に介入を始めている。
 この介入の仕方はそれぞれ「確率的に」分かれるものだと思う。
 それを無理矢理に制御することは出来はしないだろう。
 だが、それでもそこに希望は、ある。
 何故か。

 既に述べて来た通り「日常系」の分析を経て、僕は「物語」を介入される側に設定することで「描かれる対象の自由化」を図った。
 それはどうのようなモノでも己の物語に出来得る、ということだ。
 それは現実の仕事でも良い。
 好きな女の子でも良い。
 そこに自己の肯定を「祈る」ことは可能な筈である。

 そして、それが嫌、或いは出来ないなら創作に励めば良いのだ。
 そこで努力することで中から「確率的に」もしかしたら多くの人々を感動させ得る「アウラ」を持ったオリジナルを作り上げるだけの技量を磨き出し得る人が現れるかもしれないのだから。
 そして、ニコニコ動画でそのような人を既に何人も目にした筈である。

 結論として、僕は「創作」がまた新たなる「創作」に繋がることをこそ希望の可能性だと言う事が出来るのかもしれない。
 これは僕の個人的な結論だ。そして、一つの「物語」でもある。
 僕は言った。「物語」は介入/破壊されるものだと。
 だから、これに反発して「そんなお綺麗な作り方はしたくない」という意見だって出るだろう。別にそれでも仕方ないし、最終的には構わないのだ。
 だって、それが「創作」に結び付くのだから。

※ちなみに、「第四人称」が(再)評価されるべきってのは横光利一氏の『純粋小説論』や、何度も引用した外山滋比古氏のまさに『第四人称』だけでなく、確か冲方丁さんも何かの機会で仰ってた(記憶が曖昧だけど?)し、実際に小説としてそれを志向してる人は結構いると思う。例えば円城塔さんとか。僕が知らないだけで、他にも数多いるに違いない。

※あと何でこのツイートを纏める時に『ナーシサス次元から来た人/平沢進』をかけてたかというと、氏は『けいおん!』の主要登場人物である平沢唯の名前の元ネタであるが、この楽曲(に限らないけれど)はその「終わりを引き受ける」という姿勢の物差しになっていたのではないかと思うからだ。
 つまり、これは京アニだけの文脈ではないのだろう、多分。(それはここでも引用させて頂いた『アニメルカvol.3』の「『けいおん』の偽法」という記事の名前が恐らくは平沢進氏の『救済の偽法』から取られていることと共通しているのではないだろうか。

 ……以上、長々と駄文を打たせて頂きましたが、本当にTLを荒して申し訳ありませんでした!!
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