『UN-GO』第二話「無情のうた」について(※重大なネタばれ有り)

  • Day:2011.10.27 03:05
  • Cat:日記
『UN-GO』は戦後無頼派の代表である坂口安吾氏(『堕落論』などで有名)の小説『明治開化 安吾捕物帳』を原案に、アニメ『鋼の錬金術師』で知られる水島精二氏(監督)と會川昇氏(脚本)のコンビがその設定から大胆にアレンジし、近未来を舞台に描いた作品である。

『UN-GO』 Introduction
 “終戦”を迎えたばかりの近未来の東京。そこでは、探偵業が流行らなくなった代わりに、メディア王・海勝麟六が膨大な情報量と優れた頭脳を生かして、幾多の難事件を解決していた。しかし、実は麟六の推理には裏があり、それをあぶり出すのが、「最後の名探偵」を自称する結城新十郎と、その相棒・因果。世間からは、「敗戦探偵」と言われているが、それでも2人は力を合わせて、様々な難事件の解決に挑むのだった。
(wikipediaより)

 簡単な内容としては上記のような物語である。(気になる方は公式でインターネット配信を以下のページで期間限定にて行っているので是非とも観て頂きたい→フジテレビオンデマンド『UN-GO』配信ページ
 今回は、その中でも第二話「無情のうた」(坂口安吾 『明治開化 安吾捕物帳』 “ああ、無情”より)について取り上げたいと思う。


「無情のうた」で最後に彼女が口にした曲とは。(※以下、重大なネタばれを含む)

『UN-GO』 第二話「無情のうた」 あらすじ
海勝のもとに虎山がまた不可解な事件を持ち込んだ。無認可タクシーが正体不明の女に配達を頼まれ、あるお屋敷を訪ねて、トランクを引き取った。運転手がトランクをあけたところ、トランクの中にあったのは、そのお屋敷の主・投資家の長田久子本人の死体だった。トランクを屋敷の門番に預けたのはこれまた謎の男。海勝は、これはグループの犯罪に見せかけた単独犯の犯行と推理、捜査線上に浮かんだ容疑者・荒巻の捜索が始まる。

その数日後、新十郎は長田久子の娘、長田安と出会う。海勝の推理で浮上した容疑者は、真犯人ではないという安。母・久子はずっと以前から脅迫され、毎月品川のホテルにお金を届けていたという。

脅迫犯について「もしかしたら夜長姫の……」と気になる言葉を漏らす安。夜長姫とは、一世を風靡した国民的アイドル。彼女たちは日本の海外出兵をきっかけとする報復テロに対し、徹底抗戦を歌った“戦時下”のカリスマだった。だが終戦後は、その内容故に彼女たちの歌は、検察庁連合調整部によって放送・発売禁止となっていた。

謎の殺人と放送禁止アイドルを繋ぐ線とは何か。捜査を始めた新十郎の見たものとは。
(公式HPより)

 さて今回この「無情のうた」を語るにおいて必要である為に、まずこの事件の真相から述べねばならない。
 今回の犯人は被害者・久子の娘である安である。戦時中、彼女は母でありアイドル事務所の社長でもあった久子によって戦意向上の為の道具として歌声だけを“夜長姫3+1”というアイドルグループの失われた(架空の)メンバー・安西エリとして利用されていた。久子たちはエリが日本の海外出兵に対するテロによって亡くなったという事実をねつ造し、残りのメンバーである三人がそれに負けずに歌う姿を国民にアピールする事によって絶大な人気を集めたのだ。これによって日本は大規模出兵、徹底抗戦を後押しする世論を作り上げるに至る。それが久子(そして、その裏にいた海勝)が戦時中に創り上げた“夜長姫”という“物語”だったのだ。

 ここまで書いて、初めに触れておかねばならない事がある。それは「我々はどのようにして“物語”に介入する事が出来るか」である。単刀直入に言えばこれは“人形”を通してでしかあり得ない。この事に関してはまさに人形劇を思い浮かべて貰えればよい。もしも貴方が目の前で行われている人形劇に不満を持ち、それを本来あるべき展開から変えたいと思った時にどうするか?
 手段は二つ、人形劇に登場している人形を奪って自分で動かすか、新たな人形を作って割り込むかのいずれかだ(実際にはもう一つ手段があるのだが禁じ手である上に、後で触れるのでここではスルーしておこう)。人はこれを二次創作と呼ぶ。
 この二通りの方法はどちらにせよ人形を通している点では変わらない。これは人形劇という媒体に関わらず、小説やドラマ、映画、アニメに漫画、どのメディアでも変わる事のない構造である。架空の人物であれば当然であるし、もしも実名の人物の名を使っていようとそれは物理的なそれ自体とはイコールで結ばれないのだから、物語に登場する人物とはそれ即ち人形である。

 そして、あるべき展開を変える事とは奇跡に他ならない。それはかつて神という存在が信じられていた時代、上位の存在が我々人間という人形に介入する形と相似であり、その事において神がその時々において偶像として崇拝されて来た事は今回の挿話がアイドル(=偶像)をモチーフとしていた事と無関係であろう筈もない。

 この時、今回の挿話は既に“あるべき形”を失っている事を意味する。それは安にとってだ。この時点で彼女は自らの母親の手によって現実としての立ち位置=長田安を奪われている。彼女はもう安西エリとしてしか生きられないのだ。しかし、それだけなら良かった。彼女自身、歌う事が好きで歌手になりたいと思っていたので、安西エリとして生きて行く道を選ぶ事は苦ではなかったのだから。
 だが、作中ではこの後に日本は敗戦してしまう。安にとって問題であるのはここからだ。
 久子や海勝は戦後、不都合な事実である夜長姫の秘密を隠匿する為に、新情報拡散防止法によってありとあらゆる場所から夜長姫のデータを消去してしまう。そして安の歌手としての道は閉ざされた。それは架空の立ち位置=安西エリの消滅であった。

 ここにおいて人物としての長田安は“現実の長田安としての立ち位置”と“架空の安西エリとしての立ち位置”から弾き出されてしまう。彼女は世界に存在しないモノとなってしまったのだ。自分を作り上げた存在によって自分の存在を消される、それを人によっては「クラインの壺に閉じ込められた」などと表現したりもするのだろうが、ここでは彼女が生きる場所を失った事さえ理解して貰えればよい。

 しかし、現実に、物理的な問題として長田安は生きている。
 生きているのに生きる場所を失ってしまった存在。そこからもたらされるのは圧倒的なマイノリティ感である。この事を更に強める要素として、安の台詞から仄めかされる事実として彼女の祖母が日本人ではなかったこと、つまり彼女が異邦人であった事も関係があるだろう(安西エリの墓地が横浜の外人墓地であった事もこれと意味を同じくする)。今回の事件はそんな立ち位置を奪われた安がそれを自ら取り戻す為に行った犯行=反抗であったと言ってよい。
 先程、劇のあるべき形を変えたい時の手段を二つ挙げたが、ここでスルーした最後の一つがあった事を思い起こして欲しい。その手段とは何か?
 それは、何か一つ人形を壊してしまう事だ。役割を与えられた人形が一つでも壊れてしまえば“物語”は展開を変えざるを得ないのだから。(劇自体を壊して無かったことにする事も出来るが、それは物語が破綻するだけでそこで語られる事は一切なくなってしまう為に有効であるとは言えないだろう。とある歌はこう歌っている。「終末理論は机上の空論でしかない」と)

 故に今回の挿話はアイドル/偶像=人形を壊すという事において徹底している。「アイドルアプリ」という拡張現実によって“作られた存在”である事から始まり、荒巻の(明らかに醜く描かれた)女装癖やアイドルたちのその後=引退して太った姿、装飾過多な金品を執拗に身に纏った姿を通して“偶像”という存在は徹底的に破壊される。また、最初のドルプリと途中で出て来るドルプリの映像が明らかに違った印象を与える点も見逃す事は出来ない(後者はまるでCGである事を隠していないかのようだ)。我々は今回の挿話において、これらの要素から安が犯人である事を推理する事が出来るようになっている。

 そして、それはこの挿話の結末にまで及んでいる。結局、自分の親を殺してまで歌手になる夢を叶えようとした安は、海勝らの手によって異なった真相をでっち上げられてしまい、その目論見は破綻する(その手段として海勝たちが取ったのが荒巻の殺害であり、安と同じ手法だった事は皮肉以外の何者でもない。死者との関係性とは永遠であるのだから、それを覆す事は出来ないのだ)。それ故に探偵・新十郎も事件の偶像としての犯人を挙げる事は出来なくなってしまう。彼女に与えられた罰はそれほどまでに大きかったのだ。
 
 ここまで話をして来たところで一度、思い出して貰いたい事がある。それはこの作品のスタッフがアニメ版『鋼の錬金術師』の水島精二氏と會川昇氏である事だ。その中でも特に重要なのは『劇場版 鋼の錬金術師 シャンバラを征く者』である。
 こちらは本題ではないので短く説明するが、『シャンバラ』はTV版のラストで錬金術の世界であるアメストリスから「門の向こうの世界』、即ち第二次世界大戦前の西暦世界へ飛ばされてしまった異邦人、エドワードの物語だ。
 また、脚本は違うものの水島監督繋がりでは『機動戦士ガンダム00』を思い出して貰っても構わない。彼らはU.C.(宇宙世紀)ではなく西暦世界にて戦争根絶の為に戦うテロ集団だった(このようなモチーフや、『UN-GO』の因果による謎の告白シーンでの音楽が『シャンバラ』に出てくる「ロマ」たちの音楽と繋がっている事は水島監督が常に一つのテーマを変奏しながら描き続けている事の表れであるだろう)。
 この二つの作品に共通すること。それは「どちらも架空の歴史から弾き出されてしまったキャラクターが、西暦世界に顕現している」点である。この事は、今回の「無情のうた」の長田安と深く結び付いている。
 先程も述べた通り、彼女は作中で現実と架空の世界のどちらからも弾き出されてしまっている。しかし、それ故に彼女は作中の世界から、我々が生きる現実の世界へと既に足を踏み入れているのだ。
 この事において『シャンバラ』と「無情のうた」は相似形である。前者においては母・イズミが死産してしまった赤子をホムンクルス(=人形!)として形作った存在であるラースの犠牲によってアルフォンスがエドのいる西暦世界に顕現する。それ故に、『シャンバラ』でエドとアルが西暦世界にやって来るシーンでは、ノーアという女性の服が血で汚れていたのである。あれは「死産と出産」を意味していた。

 それと同じように、彼女は我々の現実世界へと顕現しているのだ。
 今回の脚本を月刊「シナリオマガジン ドラマ」で確認すると、ラストはこう書かれている。

安西エリの墓の前に倒れこんでいる安。まるで死んでいるように見える。手首のあたりから流れている液体。(中略)長い間があって、ゆっくりと起きあがる安。花瓶が割れて倒れて、そこから零れた水が、手首のあたりから流れていたことがわかる。
(月刊「シナリオマガジン ドラマ」より) 

 これは明らかに視聴者を安が事件の顛末に絶望して自殺したのか、と一度は導く為のミスリードでもあるのだが、このような文脈を経た時に、あの映像は寧ろ別の形であった事が分かり易く前景化してくる。それは前述したような「死産と出産」としての意味を持ち始めると捉えるべきではないだろうか、ということだ。
 彼女は新たに生まれたのだ。それは長田安でも安西エリでもない、別の存在であるドルプリのデータとして。
 そのような姿になった彼女が墓前で歌を歌う為に口を開くあのシーンは、まさに『シャンバラ』のラストでエドたちが荒涼な世界へと旅立つ姿と酷似している。
 それは第二話の挿話において引用された坂口安吾氏の『余はベンメイす』にも現れている。

私は、たゞ一個の不安定だ。私はたゞ探してゐる。女でも、真理でも、なんでも、よろしい。御想像にお任せする。私はただ、たしかに探してゐるのだ。
 然し、真理といふものは実在しない。即ち真理は、常にたゞ探されるものです。人は永遠に真理を探すが、真理は永遠に実在しない。探されることによつて実在するけれども、実在することによつて実在することのない代物です。真理が地上に実在し、真理が地上に行はれる時には、人間はすでに人間ではないですよ。人間は人間の形をした豚ですよ。真理が人間にエサをやり、人間はそれを食べる単なる豚です。
 私は日本伝統の精神をヤッツケ、もののあはれ、さび幽玄の精神などを否定した。然し、私の言つてゐることは、真理でも何でもない。たゞ時代的な意味があるだけだ。ヤッツケた私は、ヤッツケた言葉のために、偽瞞を見破られ、論破される。私の否定の上に於て、再び、もののあはれは成り立つものです。ベンショウホウなどと言ふ必要はない。たゞ、あたりまへの話だ。人は死ぬ。物はこはれる。方丈記の先生の仰有る通り、こはれない物はない。
 もとより、私は、こはれる。私は、たゞ、探してゐるだけ。汝、なぜ、探すか。探さずにゐられるほど、偉くないからだよ。面倒くさいと云つて飯も食はずに永眠するほど偉くないです。
 私は探す。そして、ともかく、つくるのだ。自分の精いつぱいの物を。然し、必ず、こはれるものを。然し、私だけは、私の力ではこはし得ないギリ/\の物を。それより外に仕方がない。
 それが世のジュンプウ良俗に反するカドによつて裁かれるなら、私はジュンプウ良俗に裁かれることを意としない。私が、私自身に裁かれさへしなければ。たぶん、「人間」も私を裁くことはないだらう。
(『余はベンメイす』より)

 『鋼の錬金術師』も『UN-GO』も新しい地平において真理(前者は「等価交換」という法則を通して、後者は謎を通して)を探す為の出発を描いた物語なのだ。

 決して、彼女は新十郎によって肯定されたのではない。それは墓前の謎解きシーンで新十郎と安が対峙している構図からも窺える(あのシーンは誰と誰が話しているかで対峙の構図が入れ替わるが、決して彼が彼女と同じ位置に立つ事はなかった)。また、彼女が彼女である事を肯定するのならば、ドルプリのデータではなく、今回の事件の真相を流出させる方が明らかに妥当である。彼は、死者が死者である事、自分自身を肯定したに過ぎない。それが結果として彼女が生きる事を選ぶきっかけになったとしても。
 これは第一話で新十郎が坂口安吾氏の『堕落論』を引用した事からも分かる。

「人は堕落する、聖女も英雄も。それを防ぐことはできない。それが……救いだ」
(月刊「シナリオマガジン ドラマ」より)

 彼は言っているのだ。自分を肯定するのは自分でしかない、と。事はここに至って倫理を描き始める。
 我々は“物語”なくして人生に満足を得る事は出来ない。しかし、その手段は架空の世界に逃げ込む事ではなく、寧ろそこから堕ち切った現実でのみ語られる。では、我々はどのように物語を語ればいいのだろうか。
 その回答の一つは、この作中ではっきりと描かれている。それは、あのドルプリデータを受け取ったオタクたちの姿としてである。彼らは、あのデータによって自分たちの物語を歌として紡ぎ出す事が出来る。それは、まるでニコニコ動画などで様々なPたちが初音ミクに代表されるボーカロイドを使って行っている行為のようだ。今回の挿話において架空のアイドルが描かれた事はここに結実を結ぶと言ってよい。
 彼女は、そのようなマイノリティの声を掬い上げる為の集積装置となった。それ故に、最後のシーンで深く息を吸ってまるで歌い出すかのように口を開いた彼女は、しかし実際にその歌が描かれる事はない。それは描く事が出来ないからだ。
 あの時点で彼女が歌う曲は本編と同じ「ブルーライトヨコハマ」ではあり得ないのだ。
 何故なら、それはあのドルプリを使ってデータを受け取ったオタクたちが各々で紡ぎ出すモノだから。

 長々と綴ってきたが勿論、このような考え方がたった一つの冴えた答えだと言いたい訳ではない。
 第一、物語を自分で紡ぎ出す事で皆が満足出来るかと問われれば果たしてそれは微妙であると言わざるを得ない(その点において、第二話の“ダウンロードの保存と失敗”の連続が迫力を持ってこちらに届いたのは必然であるだろう。そこには明確な厳しさが存在していたのだから)。しかし、だとしてもその流れを上から留める事は出来ないのではないだろうか。あるとすれば、それはカウンターとしての反撃でしかないのだから。それは坂口安吾氏が『余はベンメイす』で語った内容と同一であるだろう。
『UN-GO』の第二話の素晴らしさはこれで語り切れたなどとは露ほども思わないが、しかし、以上がフジテレビで放送中のアニメ『UN-GO』第二話「無情のうた」について感じた事を僕が僕の物語として形にしたモノである。
 流石に疲れたのでここで一旦、筆を置きたいと思う。

 最後に、第一話のEDがニコニコにあったので貼っておこう。では、また何処かで。ノシ

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