ニコニコにおけるコメントの3D性からネット時代における自意識の所在へ(第1回)

  • Day:2011.07.22 02:57
  • Cat:日記
 久しぶりに日記を投稿します。
 これは、Twitterで見掛けたとある話題(他者性)から普段、僕がネット(その中でも主にニコニコ動画など)について考えていた事へと飛躍し、更には僕が最近ずっと考えていた「どうのような作品が現代では需要され易いのか」という事までも含めてtwitterに投稿したメモ書きを校正し直したモノになります。なので、たまに文脈が分かり辛く飛ぶ所があるかもしれませんが、御容赦下さい(あと、書き足し部分も勿論あります)。
 では、以下がその内容となります。

 事の発端は僕がtwitterで書き残したこの文章でした。

 発信側と受け手のズレは前から気になっていたけれど、特に最近はそれを顕著に感じる。
それに関してこないだ自分の感じた実体験的な事を(それがどうという訳ではないのだけど)何となくここに書き記しておこうと思う。
 それは以前、ニコ生でとある論評番組の公式放送を観ていた時だったのだけど、僕は画面と流れるコメントが完全に乖離してるように思えたのである(別に番組内容自体はおかしな事を言ってなかった。ただ、番組自体がおかしな事を言ってなかったとはいえ、そこに視聴者がいる時点でそれは意識せざるを得ない筈で、一概に一方だけを問題視している訳ではないけれど)
 これはきっと3D化されていたらより面白いのではないか、と僕はその時ずっと考えていた。
 もう、画面から驚くほどコメントが飛び出まくっていたと思う。
 飛び出るのは、勿論だけれど距離感として。
 それくらいかけ離れた場所で会話/コミュニケーション(ではない、何か)が繰り広げられているように見えたという事で。
 ニコニコは3DとかARを取り入れられるならもっと面白くなる筈だろう(←無茶ぶり)
(ここら辺は勿論、僕なぞに言われずとも既に運営さんも意識してる訳なんですけどねw)

 そこから後日、僕はこう呟きます。

 ところで、昨日ニコニコに3DとARを取り入れたら的な事を書いたけど、あれはもし文字を浮き出させるならそれは誰が判断するのって問題がある訳で。
 なら逆にコメント側にそれを託すって考えが当然だけれど出て来て。
 すると既にニコニコは3Dという部分に関しては実装してると考える方が妥当なのではないだろうか。
 それはコメントにおける大文字や小文字といった大きさによる遠近感として。
 考えれば考える程、ニコのシステムって完成されてると思う(それが十全に使われているかは別問題だが)。
 ここら辺は夜にでも適当に呟こう。
 さて、お仕事に向かいますかね。
 今日は『ハルトマンの妖怪少女』でも聴きながら。(一応、曲選びにも意味あったり?)

 そしてその夜。つまり、ここからが本記事の内容となります。

 さて、特別する事もないし、夕方に書いたニコニコ動画の3D性についてでも、適当に呟きながら寝るまでの時間つぶしでもしよう。別に、特別に目新しい事を言う訳でもないけど、単純に自分の頭の整理として。
 まぁ、昨日呟いた(http://t.co/PoHDiAo)これに端を発するのだが、今日の夕方にそれをどうやって実行するのかに問題点があると僕は書いた訳だ。
 それはどの程度、動画とコメントが乖離しているのかを、運営側がどうやって判断・管理するのかという点である。
 これについての結論は至って簡単である。
 答えは不可能だ。
 それは手間、技術、あらゆる面で不可能だという事が考えればすぐに分かるのである。
 だとすれば、もし3Dをニコニコに投入するとすればそれは運営側ではなく、コメント投稿側の人間の手によって自ら管理されねばならないと考えるのが妥当だろう。
 そう考えた時に面白いのがコメントの機能の一つだと思う。
 それはコメントの大中小コマンドである。
 実は、あれが既にニコニコ動画にコメントの3D機能を仮想的に実装させているのではないだろうか。それは実際に飛び出す訳ではないけれど、誰しもが脳内で作り上げる遠近感というアプローチで。
 今回はその事について言及して行きたいと思う。

 これに関して一つ、他の所から引用を引っ張ってくる事になるのだが(http://t.co/m4iUB9i)これはゼロアカ道場での村上裕一氏による文章で、この12ページに面白い記述がある。それは士郎正宗氏の漫画『攻殻機動隊』への言及部分だ。

  「『攻殻』の漫画が備えている他の作品と決定的に異なった特徴は、1ページ辺りの情報量である。(略)その量は圧倒的で、吹き出しやテロップだけでは足りないのか、欄外にすらコメントがひしめている。この欄外コメントの存在感は異常で、時にはこちらが本編ではないかと思わせるほどである。そこでは士郎がさながらニコニコ動画でコメントをつけるように、隣接するコマないしはそのページで描かれた状況に関する解説、分析、時には思弁としかいえないような蘊蓄を展開している。それは登場する人物たちを通じて持論を展開するというよりもむしろ、彼らを見ながら彼らとともに考えるといった風に近い。」

 僕はこれをそのまま逆にすると、ニコニコ動画において行われるコメントも条件さえ揃えばその作品の本編の一部として取り込まれる事になるのではないか、という風に考えられるのではないかと思う。
 そして、実際にそれを体現するような形でニコニコの幾つかの動画では、コメントも含めて作品といったような状況が出来ているのだ。
 それは例えば、ニコニコ技術部と呼ばれる動画群のような、一般には分からない「謎の技術」と呼ばれるタグさえも付けられてしまう動画などによく見られる。
 そこでは、その分野に詳しい視聴者が(勿論、投稿者自身が解説を加えているモノもあるが)事細かに動画内で作っている物、起きている事への解説が行われているのだ。
 それによって、それを観ている詳しくない一般人も、その動画に対して理解を深めながら視聴する事が出来る。
 その他にも、例えば架空戦記シリーズというノベル形式のパートを含んだTRPGやその他諸々のゲームなどを使ったストーリー創作系動画、或いは単純にノベル形式のみで構成されたモノも存在し、こららにも先程の技術部動画と殆ど似たようなコメント解説が投稿される事がある。
 その場合は、「このゲームはこういうルールだから、今の演出はこういう事だ」とか、「今のシーンは原作のここからの引用である」といったような解説がコメントされているのである。
 ちなみに他のジャンルにおいても、このようなコメントは恐らく探せば幾らでも見付かるモノであろう。
 例えば、音楽系の動画であれば録音機材や楽器の解説などがコメントされたり、といった風にだ。(これも実際に存在する)
 そこで面白いのが、これらのコメントは動画の邪魔をしないように様々な工夫が重ねられている事がある点である。
 それは例えば、ストーリー系の動画でならキャラの立ち絵、台詞と被らないように動画の上に“固定コメントで”、“小文字”で投稿される、などといったようにである。
(※ここで“固定コメント”に括弧を付けたのは後々に意味を持つので憶えておいて貰えれば幸いだ)
 それはまさに先程引用させて頂いた村上氏の文章で述べられている士郎氏の漫画における“欄外”と似た形式を作り上げている事が、氏の漫画を読んでおり、またニコニコで動画を幾つか観た事がある方なら分かるだろう。
 さて、ここまで来てようやく、話の最初で出したキーワードが一つ。
 そう、コメントの機能である“小文字”である。

 そしてもう一つ。ニコニコ動画にもそのネットという特性上、欠かせないモノとして炎上現象がある。
 または、炎上までは行かなくとも、所謂アンチコメントというのはそこそこ再生数とコメントのある動画には付き物である。
 それに対して一時期、こんなフレーズをニコでは目にする事があった。
 それは「“大文字”と色文字はシカトで良い。あれは大半が○○○○だ」というモノである(そこまで極論な言い方をするモノばかりではなかったが、概ねの意図はこれで間違いではないだろう)。
 これは実際に見ていれば分かるが、確かに色文字と“大文字”を使ってアンチを主張するコメントは多かった。
 いや、それは今でも間違いなく多いと思われる。
 動画を開けば常にゼロコメ(※動画開始と同時に投稿されているコメントのこと)で「この動画つまんね」などの罵詈雑言が貼られているのだ。
 さて、これでようやく“大文字”というキーワードも出て来た。

 阿呆みたいに冗長で、読み応えのない文章で申し訳なかったけれど、要するに僕がここで言いたいのは作品を邪魔しないように“小文字”になったコメントと、敢えてアンチという自己主張の為に書かれた“大文字”が並んだ時に遠近法によって距離感が生まれるという事である。
 つまり、動画の内容に造詣が深く思い入れも強い(ともすれば、それも含めて一つの作品となるような)小文字コメは奥に配置され、逆に大文字は手前側に置かれているように見えるのだ。
 勿論、全てのコメがこうした形ではないけれど、あれが実はニコニコにおける完成したモデルの一つなのだ、と言っても過言ではないと思う。
 つまり、僕らは既に運営の手を煩わせずとも、無意識の内に動画との距離感をコメントの大中小という機能を使って実現していると考えられるのだ。

 しかし、何故このような事が可能なのだろうか。
 誰だって、「私はこの動画と距離を置いてます」というような主張をしたくはない。
 否、そもそもそんな意識は持たない筈だという方が正しいに違いない。
 それに対して、どうやって自分と動画の距離感をコメントで示させる事が可能になっているのか。
 ここで重要なのは、無意識という点だろう。
 さて、ここで思い出して貰いたい事が一つある。
 夕方にこの関連の呟きをすると予告した時に僕が『ハルトマンの妖怪少女』を聴く、と書いた事である。
 恐らく、この楽曲を知っている人は想像が付くのではないかと思うが、僕がこの曲を挙げたのは、この無意識を考えていたからである。
 この曲はニコニコ動画でも有名で、御三家と呼ばれるジャンルにさえなっている『東方』というシューティングゲームのBGMで、古明地こいしというキャラのテーマでもある。
 彼女の能力は作中において「無意識を操る程度の能力」と称されており、地霊殿と呼ばれる東方シリーズの一角でEXという所謂、隠しボス的な役割を務める程のキャラだ。
 同ゲームは先程も述べた通り、STGであり、幾重にも貼られた弾幕と呼ばれる敵の弾丸を主に避ける事でステージを進んで行くのだが、最後に現れる彼女は無意識を操る事で強者の位置に収まっている。
 これは如何にも示唆的だ。
 無意識は意識出来ないが故に、どうやっても避ける事が出来ない。
 これはそのまま、先程のニコニコ動画におけるコメントが必然的に一つの形を作り上げる事を意味はしないだろうか。
 最初に述べた通り、動画とコメントの距離感をどう判断するかが困難であっても、それが己の無意識で行われているのなら、それを回避する手筈がないからである。
 視聴者が自己の主張を大中小のコメントコマンドで表わそうとすればするほど、この無意識の罠によってそれは動画との距離感へと変化させられてしまうのだ。
 この無意識こそが、コメントの大小コマンドで遠近感を表現する為の唯一にして限界の管理方法なのではなかろうか。
 ニコニコにおいて『東方』というジャンルが流行ったのには、こうした消費者の感覚に制作者であるZUN氏がかなり意識的であったが故、とも言えるのではないだろうか。
 そこには弾幕とコメントの類似性、親和性を見出す事が出来るのだ。
 奇しくもコメントが幾重にも連なって流れて来る状態の事を弾幕、と呼ぶのはただの偶然という訳ではないだろう。
(事実、彼はこうした事だけでなく同人ゲームから二次創作まで含めての巨大なマーケットを支配している事からも窺える。二次創作やCGMは現代の作品とは切っても切れないモノであろう)

 さて、しかしここまでわざと省いて来たのだが、では最後に中文字についてはどうなのだろうかを考えねばならない。
 それは何故かと言えば、先程も述べた通りニコニコでは(いや、ニコニコだけに限らずネットでは)発信側と受け手の乖離が多く見られる事は最初に書いた通りだが、それはそこまで強い主張をしない真ん中にいる層、所謂サイレントマジョリティーを無視するせいであると僕は考えるからだ。
 つまり、ここで大文字と小文字にばかり目を向ければ、発信者であるこのブログと受け手であるこの文章を読んで下さる方々の間に齟齬が起きるのではないだろうか。
 つまり、ここを目にする可能性のある人間の中の大多数が中文字であるのに対して、小文字と大文字の話だけをすれば、それは共感は得られまいというのが僕の結論なのだ。

 さて、このような考えから中文字の話へと入ろうと思う。
 この層こそが一番に世の中で多い層を占めているのは、実際には今まで述べて来たような大や小よりコマンドを使わずとも良い“中文字”が動画では圧倒的に多い事から見ても、殆どの人がここに距離を置いていると考えるのは不自然ではないだろう。
 であるとするならば、この“中文字”にこそ最も注目すべき現代の自意識が潜んでいるとは考えられないだろうか。
 そして、先の文章で“固定コメント”にも括弧を付けた意味がここで出て来る。
 先程も述べたように、多くの人がコマンドなど使わなくても良い位置に属している。
 それは固定コマンドも当然、同じように考えられる筈だ。
 何故なら、ニコニコのコメントとは疑似同期的なモノであり、それは時間とともに“流れていく”からこそ認識出来るモノだからだ。
 つまり、ニコニコという場において我々の意識は画面を観ている身体ではなく、あの動画の上を流れて行くコメントと同一と看做すべきなのだ。(勿論、単純に画面外から動画を眺めている人々も少なからずいる事は否定出来ないけれど)
 それは、小文字と、大文字からも逆説的に証明される。
 先程も述べた通り、画面の奥に存在する小文字は作品の発信側に取り込まれており、我々の意識とは同化する事が出来ない。
 手前に来るような大文字は画面外で自己主張する「他の誰か」を想像させるが故に、我々の意識とは同化する事が出来ない。
 小文字も大文字も、一度でも固定されてしまえば我々の意識からは離れた存在にならざるを得ないのだ。
 そして、ここにネット世代のリアリティの場所を、一つの形として見出せるというのは暴論ではあるが、そこまで大きな間違いではないのではないだろう。
(或いは、このような事は既に幾人もの方々が先行して言及しているモノでもあるかもしれない。そこら辺、イマイチ不勉強で自分の身を恥じる次第ではあるが、ここではそれは一旦置いておこう)

 さて、ここまでを纏めてみたいと思う。
 まず、ニコニコにおけるコメントでは、そこまで含めて作品とまでされるようなコメントは小文字で奥に、まるで画面の外で動画に対して嘲りや怒りを発している姿さえ想像させる程の大文字は手前に配置されており、そしてそれを観ている我々の意識はコメントともに真ん中を流れて行くのだという事。
 そして、それを行っているのは無意識な僕らの身体だ、という事である。

 ここから今の作品において自意識を掬い上げる手法の一つとして僕らそのものを描くよりも、作品と僕らというレイヤーの真ん中に挟まれた人間ではない“何か”が描かれているのだ、といった風にこの先の各論で幾つかの作品へと話を持って行こうと思うが……(というよりも、それをやっているのが序盤で引用した村上裕一氏の『ゴーストの条件』な気もするのだけれどorz だとすれば二番煎じも良い所だが、それも已む無し。取り敢えず、10月発売予定の『ゴーストの条件』には凄まじく期待している僕であったりします。はい。)……流石に長くなりすぎたので、一先ずここで筆を置きたいと思う。

 以上を以って、『ニコニコにおけるコメントの3D性からネット時代における自意識の所在へ』の第一回としたいと思います。
もしここまで冗長で下らない文章を読んで下さった方がいらっしゃれば、その方には感謝を幾ら述べても足りないでしょう。
 そうした方がいるのならば、それに応える為にも続きを書きたいとは思います。
(ちなみに、以前もこのような文章を書いてペンディングしておりましたが、あちらは僕よりももっと面白く、もっと深く語っている方を見付けてしまいましたので、割かしどうでも良くなってしまっています。それもここで伝えておこうかと)
 それでは、読んで下さった方がいれば本当にここまでありがとうございました。
 ここで失礼します。
 twitterID:irie_haruki(tacker10)
スポンサーサイト

Comment

Comment Form
公開設定

Trackback


→ この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。