『人類は衰退しました」とどう向き合うべきか、僕には分からない。

  • Day:2012.07.10 19:29
  • Cat:日記
 僕は田中ロミオという作家について結論を出せずにいる。よって、この記事は結論を提示することを目的としたものではなく、頭の中にあるアイデアをそのままメモ書きした程度のものだと捉えて貰う他ないことは最初に告白しておこう。ただ、その中で他の誰かに有益な、田中ロミオの作品を楽しむ為のきっかけが一つでも生まれるなら、こんなに嬉しいことはない。

 そもそも、田中ロミオとは誰か?
 彼は元々、恋愛シミュレーションゲームのシナリオライターで、その代表作には例えば『CROSS†CHANNEL』や『ユメミルクスリ』などがあり(尤も、彼は田中ロミオという名前を使う以前から、山田一――代表作に『加奈 〜いもうと〜』、『星空ぷらねっと』、『家族計画』など――という名義で既に評価を得ていた疑惑がある)、また現在は引き続きゲームのシナリオを手掛けると共に、小学館ガガガ文庫から幾つかの小説を出している作家だ。
 僕の管見では、はじめ彼のイメージは「虚構が現実を侵食するブラックユーモアを無邪気に描いておきながら、更にそのユートピア/ディストピアを無邪気に壊して、現実に帰っていく」作家“だった”。
 例えば、彼の(シリーズものを除けば)最も新しい小説『灼熱の小早川さん』を参照してみよう。
 同作は表向きには、何でもそつなくこなす少年・飯島直幸が、生徒の自主性を謡う(その実態は単に生徒に全てを丸投げ)進学校に入学し、彼の望んでいた自由を得たと思ったのも束の間、突如クラス代表として現れ、規律でガチガチに皆を縛り上げ始めた少女・小早川千尋と衝突する姿を描いたラブコメ作品である。飯島は他のクラスメイトからその如才のなさを買われ、小早川との折衝役を無理矢理押し付けられる。しかし、実はインターネットで「痛い人間探し」という悪趣味を持つ彼は、小早川がネット上のブログでクラス内の悪事を如何にして裁くべきかを書き綴った「インターネット最高裁」を日々更新していることを知っていた。そこに書かれていることを手掛かりとしつつ、彼女とクラスの板挟みを何とか乗り切っていく内に、飯島は次第にクラスメイトと彼女のどちらが正しいのか分からなくなっていく。そして、二人は互いに惹かれ始めるのだが、規律を信念とし、男女交際を不純なものだと信じてやまない小早川は、彼を拒否してしまう。そこから小早川は方向性を見失い始め、彼女は目標にしていた生徒会選挙で惨敗してしまい、更にそれを機にブログも次第に危険な方向(扇情的な自分撮り写真をアップするような)へと変化していった。
 その結末がどうなるのかは、実際に作品に触れて確かめて頂きたいが、ここで何よりも注目すべきは作中のブログが田中ロミオの元々手掛けていたような恋愛ゲームにおけるwikiなどの「攻略サイト」の寓意になっている、という点である。
 要するに、ここで描かれているのは現実の恋愛がシミュレーションゲーム化するという、虚構が現実を侵食する様子を戯画化したものだと言えるだろう。例えば、もしも私が高校生で、同級生に好きな娘が出来たとしよう。そして、たまたま彼女のtwitterアカウントを発見してしまったとする。そこで、彼女が「今日は体調が悪い」と朝に呟いていれば、学校で「体調悪そうだね」などと、少し彼女に気を遣ったことでも言ってやることは現に可能なのだ。
 こうして観るとこの小説が抉り出しているのは、「スクールカースト」であるというよりは寧ろ、「ネットが現実を侵食したユートピア/ディストピア」であると理解することが出来る(或いは、同作での「空気」や「炎上」もネットの用語としてはごく身近なものとして存在していることからもそれは明らかだろう)。
 そして、そのような世界を田中ロミオは結末において(ある種の無邪気さと共に)崩壊させてしまう、ようにも見える。
 例えば、彼が『灼熱の小早川さん』以前に書いた作品として『AURA 魔竜院光牙最後の戦い』があるが、その結末では、同じように虚構が現実を侵食する(クラス内で対立していたはずのポピュラー層が、「厨二病」と揶揄される妄想癖を患ったオタク層によって感化されてしまう)様子を描いておきながら、その横でヒロインが主人公に「普通のやりかたを教えて」と言い放つ姿が描かれ、ここには『灼熱の小早川さん』との共通点を見出せるだろう。
 しかし、ここで僕が再度、問うべきは、そもそも本当にこのような虚構と現実の対立が存在していたか否か、である。
 僕は、実際にはこのような対立を捨て、「インターネット出現後の世界のユートピア/ディストピア」を描いているのだ、と理解するのが正しい、と思い至るようになった。そこでは単純な「現実に帰れ」というメッセージは機能していない(つまり、どちらが正しいという問題自体が提出され得ない)。そうではなく、田中ロミオの作品ではそもそも不可逆的に現実と虚構が折り畳まれた世界としてあり、「その中で、どう生きるか」こそが重要なのではないか。
 そして、それが最も分かり易く現れている(いく)可能性が高いのが、現在アニメ化もされている人気作『人類は衰退しました』ではないだろうか。

 前述の二作品と同じく小学館ガガガ文庫から発売されている『人類は衰退しました』は、その名の通り、私たち人類(「旧人類」)が衰退し、代わりに「妖精さん」と呼ばれる「新人類」が繁栄している世界を、両者の間を取り持つ調停官である「わたし」の視点から描いたSFである。「妖精さん」は10㎝程の身長で可愛らしく、しかし一方ではまるで魔法のようにさえ感じられる高い技術力を持つ存在だ。その癖、記憶力に乏しく、興味を持った時は数十人ででたらめな文明を築き上げるが、飽きればすぐさまそれをほっぽり出してしまうという、厄介な存在でもある。そのような「妖精さん」に対して、「わたし」は何をするでもなく、ただ漫然と振り回されるのだ。彼女は決して、その態度を自分からはっきりさせることはない。ここに、僕は田中ロミオの注目点があるように思う。どういうことか。
 まず、既に「インターネット」が田中ロミオの作品において重要であることは触れたが、同作においてもそれは一貫していると考えることが出来るだろう。マーシャル・マクルーハンは一九六〇年代に『グーテンベルクの銀河系』において、発展する電子メディアの延長線上に「地球村 グローバル・ヴィレッジ」の出現を予測していた。そこでマクルーハンは、一方で「村」になるのは地球だと述べ、他方では地球の上に覆い被さったメディアそのものだとも述べている。つまり、そこでは「この私」は二重化される、という奇妙な体験を強いられることになる(このような体験は、PCのインターフェイスによって、見えていた「イメージ」と見えなかった「シンボル」が二重化される「ポストモダンの主体」として説明されると云われている)。
 恐らく、「わたし」の住む村は、まさにそのような「地球村」的な電子世界の戯画化として描かれていると言ってよいだろう。であれば、この作品における「村」とは、例えばウィリアム・ギブソンが創り出した「サイバースペース cyberspace」(『ニューロマンサー』)の一種だと捉えるのが正しい。しかし、ここで問題になるのは、そもそもある空間とは「不気味な(unheimlich)もの」を遠方に抑え込むこと、「悪魔払い conjuration」によって成り立っており(例えば、私たちは死者を墓地という遠方に押し込める)、ギブソンもそれに倣っていた、ということだ。つまり、そこでは「不気味なもの」の体験は回避されている。
 ちなみに、「不気味なもの」とは何かを、まずはっきりとさせておかねばなるまい。ここではジークムント・フロイトを引いておこう。彼は「不気味なもの」の体験を意識と無意識、複数の情報処理経路の「速度」の衝突によって説明した。私たちは、ある人について想いを馳せている丁度その瞬間に、その本人と出会ってしまう、という奇妙な体験をしてしまう。それはフロイトによれば、無意識化では遠方に見える彼を認識しているものの、それが何らかの理由(個人的な好き嫌いなど)によって抑圧されたるのだが、しかしそれは連想の糸を辿り、その相手を空想の形として意識に上らせ、そしてその結果として想いを馳せていた相手から声を掛けられるという、「不気味な」体験を生むのだと云う。ここで重要なのは、ある情報が二重化され、その「速度」に差が出ることで「不気味なもの」が生まれる、ということだ。それはまさにマクルーハンの「地球村」において二重化されるが故に起こりやすくなる体験だと言っても差支えはないだろう。例えば、twitterで行った発言がRTを繰り返される内に、再び自分のタイムラインへ舞い戻って来た時の「既視感 déjà-vu」はまさにそれである。
 ここで、漸くだが『人類は衰退しました』に立ち返ろう。実は同作に登場する「妖精さん」は、まさに前述した「不気味なもの」として存在している。何故なら、彼らが築き上げる文明とは、常に私たち「旧人類」の文化をパロディーとして矮小化したものとして描かれているからだ。その前衛的でありながら、何処か「既視感」を引き起こす「妖精さん」の仕業こそ、「不気味なもの」の体験である。そして、それはボードリヤールの云う「シミュラークル」に等しいものだろう。この言葉が『シミュラークルとシミュレーション』という本で公になったことは、前述した「シミュレーションゲーム化する現実恋愛」、引いては田中ロミオという作家と密接に関係している。何故なら、「シミュラークル=オリジナルなきコピー」という無限交替=無限後退こそが、「『衰退』」であることは明白であるからだ。
 無論、これに対して田中ロミオの描く「わたし」の態度が決定されているならば、それは単純にギブソン的な読解、つまり衰退したセカイを創ることで「不気味なもの」を「悪魔払い」しているのだ、と捉えることが出来る。しかし、前述した通り、「わたし」は「不気味なもの」に実際に出会い、しかもそれに対して極めて曖昧な態度を取り続ける。よって、本作において、「不気味なもの」は回避されているのかが、必ずしも鮮明ではないのだ。だとすれば、私たちは『人類は衰退しました』、引いては田中ロミオを考えるに当たって、ギブソン以外の誰かを物差しとして挟み込まなければならない。
 そこで私が挙げたいのはフィリップ・K・ディックである。何故なら、彼の作品では、「現実」と「虚構」の無限交替を作り上げる入れ子構造を作った上で、更にそこから抜け出す契機としての「不気味なもの」が作中に挿入されているからだ。そこでは世界の構造は現実と虚構の二項対立ではなく、部分的に現実で部分的に非現実という、全体性を失ったモザイク状の、或いはパッチワーク状のものとして描かれている。そのような中で、主人公が真偽を如何にして決定するかという「戦略」が重要視されているのだ。寧ろ、こちらの方が田中ロミオの「戦略」に近いのではなかろうか。
 また、実際ディックには、より田中ロミオとの親和性のあるギミックが頻出する。例えば、ディックはその小説において「不気味なもの」を「可愛いもの」としてズラすことに長けていると云われる。ここに『人類は衰退しました』の「妖精さん」との関連性を見出すことは容易だ。また、ディックの小説において「人間」とはその実態に関わらず(例えば、それがロボットでも)「いかにそれが親切か」、或いは「感情移入 empathy」によって規定されていることが、ローレンス・スーチンによって指摘されている。このような態度は田中ロミオの『人類は衰退しました』の「妖精さん」の特徴(彼らは極めて「親切」であり、その可愛さは「感情移入」を容易にする)だけでなく、例えば彼の手掛けた『CROSS†CHANNEL』に登場するギミックにも見出せる。何故なら、ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で主人公は「フォークト=カンプフ測定法」という「感情移入度テストによって人間を見分けるのだが、『CROSS†CHANNEL』において田中ロミオは「適応係数」という特定の個人の一般社会との適応、あるいは非適応の度合いを表した数値を登場させているのだ。
 では、ディックはこうした小説で、主人公にどんな「戦略」を掲げさせていたかが、田中ロミオの小説にとっても極めて重要であると言えるだろう。それはつまり、どうすれば二重化され、「他我」が不毛に探し続けられる世界で「無限交替」に陥ることを避けられるのか、という問いとなるのだから。
 そして前述したギミックにも表れている通り、ディックの「戦略」を簡潔に示せば、(それが例え疑似生物であっても)コミュニケーションの表面を、つまり見たままの他者を他者として認めることに他ならなかった。「シミュラークルに覆われた世界で不毛な無限交替に陥らないためには、人々は不気味なものに感情移入して生きるほかない。」(『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』)のだ。
 これを、田中ロミオの小説、或いはアニメ化をされた『人類は衰退しました』に相応しい形に言い換えてみよう。
 それは、シミュラークルに覆われた世界で不毛な無限交替に陥らないためには、人々はキャラクターに萌えて生きるほかない、である。そうして見ると、『人類は衰退しました』の「旧人類」と「新人類」の構図は、一気に逆転する。何故なら、私たちが取るべき前述の「戦略」こそ、「新人類」たる「妖精さん」の生き方に他ならないからである(そして、実際にこの小説、アニメを消費する私たちは、そのような受容を「実践」させられるのだ)。

 但し、ここで言う「萌え」がそもそも人によって様々に意味が違うことは注意しなければならないだろう(ちなみに、私がここで言う「萌え」は、データベースとシミュラークルの間を撹乱しながら行き来する往還運動である)。また、この『人類は衰退しました』という作品は現在も続くシリーズものであり、もしかしたらこの先で主人公たる「わたし」が、ここで書いたものとは全く別の「戦略」を取ることもあり得ることは忘れてはならない。しかし、何にせよ、このSF作品の行く末には注目する価値があるのではないか、と僕はそう感じている(或いは、これこそが何重にももって回った「わたし」的な「実践」と言えるかもしれないが)。
 予告していた通り、この記事はきっちりとした結論を出すものではなかったが、長々と書いた中で、その面白さだけでも伝われば幸いである。
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