最前線から遠く離れて……。

  • Day:2013.01.26 13:35
  • Cat:日記
 日記。
 最近、本屋に行くと酷く辛くなる時がある。
「ああ、僕はいつの間にか最前線から遠く離れてしまったのだな……」と、そう感じるからだ。どういうことか。
 今月の二十日をもって二×歳を迎えた(←おめでとう!w)僕は――勿論、年長者には読んだ本の数は及ばないまでも――それなりに本が好きな人間だ、と自負している。まだ字も読めなかった幼い頃、寝る前の読み聞かせを楽しみにしていた僕は、「三つ子の魂、百まで」と云う諺があるように、今もそんなに変わっていないからだ。だから、本好きを名乗った時に「こんな本も知らんのか、若造め! 出直して来い!」と哂われこそすれ、恐らく天からの罰は当たるまいと思う。それに、単純に考えるなら、このまま行けば読んだ本の数は伸びて行くだろうし、そうした意味では、僕もいつかは年長者の仲間入り出来たら良いな、とは思う(勿論、その時には決して若者を哂ったりはしないようにしよう――だって、それは昔の自分だよ?)。
 だけど、若さには若さの良さがある。体力だ。それは長い時間の読書が出来る、とかいう類のモノではなく、最前線に居続けられる体力。
 例えば、僕もかつては『ニコニコ動画』がまだ仮オープンだった頃に発見し、「何だコレ!! めっちゃ面白い!!」と驚き、周囲の友人はおろか先輩にまで「コレ絶対に流行りますから!! アカウント作っておいた方が良いですよ!!」などと布教して回っていたものだった(本登録が始まる日、本当ならばいの一番にアクセスしてなるべく少ない桁番を貰おう――それはまるで、嫌われ者のゲッターの如く(笑)――と思っていたのに、急なバイトが入って涙を呑んだのは今も忘れない)。ニコ生だって、初めて面白いと思えた放送に出くわしたその日にコミュを作って自分でもやってみるだけの体力があった(そして、そのお陰で、僕程度のトーク力でもコミュに二〇〇人もの方々に集まって貰うことが出来たのだ)。
 同じようにして、本も、面白いものは他の誰よりも先に知りたいという欲求が確実にあった。小説、漫画、或いは媒体は違えど映画やアニメなどなど……どれも積極的に読み、視聴した。動画だって、ハマっていた時は新着のチェックを欠かしたことさえ(例え、友人の家に泊まっていた時でさえ)一日たりともなかったのだ。
 だけど、最近そんな体力がいつの間にか失われていることに気が付いた。勿論、楽しめていない訳ではない。寧ろその逆で、この一年はこれまで触れて来なかった方面にも触れてみた――例えば、批評や研究、終いには自分でも同人誌に拙い感想文のようなものを寄稿する機会さえ得た――ことで、楽しみ方は広がった気さえする。
 だけど、それでも僕は既に最前線にはいないのだ。それに気付いたのは、とある方々との食事中だった。そこで、「最近は何が若者に熱いのか」という問いが出た時に、僕ともう一人の方は「やっぱり今は『カゲロウデイズ』とかが最強なんじゃないですか? 或いは、ソシャゲとか……」と答えた。
 しかし、その時に、僕は自分で気付いてしまったのだ。
「待て……それ、自分でちゃんと体験てないよな?」、と。
 一応、言っておくけれど、僕は決してこれまでボカロやソシャゲなどをdisったことがない。少なくとも、そういう風に意識して来たつもりだったし、それが恐らく面白いのだろうというようにさえ認識している(でなければ、ボカロクラスタの方と仲良くさせて頂いたりはしなかっただろう)。だから、機会さえあれば、自分でももっと体験してみたいとは思っていた。
 だけど、その態度は確実に昔と異なるものだ。昔なら何はともあれ自分の目で、耳で、指で、ありとあらゆる五感で体験していたのではなかったか……誰よりも早く。
 愕然とした。
 その時、僕はふと、ある作品のことを思い出していた。
 それは押井守監督作品『劇場版パトレイバー2 The Movie』。
「だから、遅すぎたと言っているんだ!!」でも、よく知られている(と、思う)アレである。
 この名台詞の直前に、後藤は以下のように云っていた。

後藤「戦線から遠退くと楽観主義が現実に取って代る。
そして最高意志決定の場では、現実なるものはしばしば存在しない。
戦争に負けている時は特にそうだ」

 この他にも、例えば作中に登場する荒川などの台詞もあってか、同作を「リアルな戦争を東京に持ち込んだ」作品だと分かり易く纏めた意見を目にすることも少なくない。そして、そういう方々はこぞって本作を通じて、「仮想現実へ逃避する人々よ、現実を見ろ」なんて紋切り型の批判を口にする。
 でも、端的に言って、僕はそれはないんじゃないの、と思う。本作の犯人である柘植は、確かに戦場へ行った。だけど、彼が体験した戦場は、全てがモニター越しに行われたものではなかったか。作中でベイ・ブリッジが爆破された直後のスクランブル、あの緊迫した通信が行われる管制室とは裏腹に、結局のところ「ウィザード」たちが何かに出会ったのだったか(あの場に、「ワイバーン」はいなかったのではなかったか)。結局、全ては画面越しなのだ。そこでは言葉と並行して、映像が物語っている。スクリーンという膜が、彼らの(そして、僕らの)間に歴然と隔たっていることを。
 実際、柘植の計画が東京で実行された時も、人がいなくなった建物の描写が目を引く。個人的なことを言えば、その中でも特に印象に残っているのが、目の前を去り行く電車の窓が無数に連なり、戦車に乗る自衛隊員の顔を照らし出すシーン。あのフレームの連続が、「フィルム」以外の何であると云うのだろう。
 それは敢えて云うなれば、例えば湾岸戦争が「ニンテンドー戦争」と呼ばれたことを連想させる。勿論、そこで人々は確実に、そして大量に死んでいる中で、それでも尚ヴァーチャル・ウォーだと云う事実。ヴァーチャル・ウォーでありながら、そこに亡くなった人々がいるのだという事実。それは「現実に帰れ」なんて分かった気になってしまう簡単な言葉で纏められる問題ではないのではないか(だからこそ、その先にゲーム『MGS』シリーズで、小島監督が描き出したテーマがある……のだが、それはここでは置いておこう)。
 数々の事件を経て、現在は非常事態が全面化し、普遍化した世界だとも云われている。それは、例えばオタクなんて狭い界隈だけを取り上げたって、やれ「○○が分からない奴は駄目」だの、やれ「あの作品は××だから駄目」だの、右と左に分かれて口喧しいったらありゃしない。僕からしてみれば、そんなの知識を付け(=「訓練」という特殊な「儀式」を経て)、誰かれ構わず喧嘩を吹っ掛けて「高揚感」に喜んでいる時点でどっちもどっちだ(勿論、そんな見境のないフレンドリー・ファイアをしていないサイレント・マジョリティが多くいることも忘れてはならないのだけど……)。
 そんな中で、最前線を離れてしまった僕の頭には、あの柘植と南雲の会話が駆け巡って離れない。

柘植「ここからだと、あの街が蜃気楼の様に見える。そう思わないか」
南雲「例え幻であろうと、あの街ではそれを現実として生きる人々がいる。それともあなたにはその人達も幻に見えるの」
柘植「3年前、この街に戻ってから俺もその幻の中で生きてきた。そしてそれが幻であることを知らせようとしたが、結局最初の砲声が轟くまで誰も気付きはしなかった。いや、もしかしたら今も」
南雲「今こうしてあなたの前に立っている私は、幻ではないわ」

 最前線にいられる体力は既になくなってしまった。これは恐らく、誰しもがいつかそうなるだろう必然だ。人は、必ず老いるのだから。そして、その時に必要なのは、フィクションをリアルだと感じることが出来る能力。恐らく、これこそが何かを好きでいられる最終防衛ラインなのではないか。この分水嶺が、老害とそうでないものを分けるのだ。
 ……日記にしては長くなったので、そろそろ終わりにしたい。
 最後に、物語のラストで柘植が述べる言葉を引用して締め括る。僕が今日も小説・漫画を読み、映画・アニメを視聴する為に。

松井「一つ教えてくれんか。これだけの事件を起こしながら、何故自決しなかった?」
柘植「もう少し、見ていたかったのかもしれんな」
松井「見たいって、何を」
柘植「この街の、未来を」

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「こゆうからのとうそう――庄司薫・西尾維新・やさしさ」

  • Day:2012.12.16 16:36
  • Cat:日記
 先日、謎の読書(?)会〈殲滅ひょーぎかい〉の課題図書が庄司薫さんの『赤頭巾ちゃん気をつけて』だったことをきっかけに、庄司薫さんと西尾維新さんの作品を比較文学の形で読み解こうという試みを個人的に行ってみました。
 三日間くらいで書いたこともあり、やはり我ながら瑕疵も多く、正直に言えばお蔵入りをさせようかと思いもしたのですが、あげておくだけなら損する訳でもなし、どうせならブログに記事をあげておこう、と思い直したので、ここにあげておきます。『セカンドアフターEX2012』に寄稿した「亜人間は箱入り猫の夢を見るか――『ジョジョの奇妙な冒険』が描く歴史、その断片として」とも個人的には通じる問題系を扱っていると思いますので、あれを読んだ方は併せて、また読んでなかったり手に入れてない方にも読んで頂けたら幸いです。

「こゆうからのとうそう――庄司薫・西尾維新・やさしさ」

 まあ、内容はともかく、目的としては、庄司薫さんと西尾維新さんってやっぱりおもしれーんじゃね? みたいな文章です。なんで、誰かが気になって、扱ってるモノたちを読んでくれたら嬉しいかなー、くらいに思っています(僕は大体、いつもそうですが)。ほら、僕の読解に不満を覚えたりもするだろうし。

 なので、まあ、自分的に不満がある箇所に関しても、また今度にでも暇な時にもっときっちり議論のベクトルを形作っていつかリベンジしたいですね。やっぱ、西尾さんについて考えることは僕にとっては避けられないものの一つであるような気もするので。その場合は、今読んでいる本なんかを軸に、もう少し違う形を取ったりすると多分思いますけれど。


 追伸
 最近、忙しさにかまけてほっぽらかしていたアニメを少しずつ視聴して行ってます。
 そして、今のところ視聴した中ではどれも凄く面白いのですが、今回は『絶園のテンペスト』について。
 スタッフが公表された時点で、既に個人的に超期待していた作品でしたが、これがマジで大当たりだったのは嬉しい限りでした。アニメにおける「立体性」の「演出」というのが非常によく分かる作品なのではないか、と個人的には思ったり。
 あと、たまたま最近になってジョージ・スタイナーの『悲劇の死』を(本当は同じ脚本家・岡田磨里さんが関わっていた『RED GARDEN』の関係からスタイナー『アンティゴネーの変貌』を読みたかったのですが、周辺では手に入りませんでしたorz)読んでいたら、これが本当に色んな発見がある。
 他にもCiniiにある論考『「水」の物質的想像力 : バシュラールの夢想にしたがって』なんかもtwitterで他の方から教えて頂いて参考にしたり、或いはこれまで〈殲滅〉で課題作品にしてきたアレコレなんかも凄く繋がって来たりして、やっぱこういうのって楽しいなーと再確認する毎日です。
 でも、そろそろ遊んでばかりでなく、やらなきゃいけない作業も、もっと本格的にしなきゃいけないなー、とも反省したり(^^;)
 つー訳で、この辺で失礼します。この記事を読んで下さり、ありがとうございましたm(_ _)m

【告知】『セカンドアフターEX2012』に論考を寄稿しました。

  • Day:2012.11.13 23:05
  • Cat:日記
 お久しぶりです。
 今回は、2012年11月18日(日)に東京流通センター 第二展示場(E・Fホール)で開催の第十五回文学フリーマーケットで頒布される『セカンドアフターEX2012』の話題です。ブースはエ‐65で、価格は700円になります。
 実は、僕はこれに「亜人間は箱入り猫の夢を見るか――『ジョジョの奇妙な冒険』が描く歴史、その断片として」という題の論考を寄稿させて頂きました。
 この『セカンドアフターEX2012』では、『ジョジョ』の連載25周年を記念すると共に、主催の志津Aさんが創刊からずっと「震災」をテーマにしていたことと併せて「特集:杜王町」を組んでいます(一応、説明しておくと、荒木飛呂彦氏はこの第四部「ダイヤモンドは砕けない」の舞台となった「杜王町」のモデルが自身の出身地である宮城県仙台市の「郊外」であることを公言しており、実際に現在も連載中の『ジョジョリオン』では、冒頭からまさに震災によって傷付いた「杜王町」の様子が描かれていることに起因しています)。そして、僕の論考はその一つな訳です。
 また、他には僕も交流のある、すぱんくさんによる
「ラブ・デラックスは砕けない」や、
前号『セカンドアフターvol.2』に掲載された「郊外から考える――震災・郊外・浜松」の姉妹作となるhmuraokaさんの
「杜王町から考える――震災・郊外・吉良吉影」があります。
 前者は山岸由花子(「杜王町」を舞台とする『ジョジョ』第四部の登場人物)に焦点を当てた論考、後者は合い言葉を「「郊外」で生きる誰もが吉良吉影(同じく第四部の登場人物)になりえる」にサブカルチャー作品を通して郊外における生について考える論考となっているようで、僕も今から読むのを楽しみにしています。

 そして、それ以外でも、志津Aさんと『セカンドアフターvol.1』でアニメ『けいおん!!』論として「ツインテールの天使――キャラクター・救済・アレゴリー」、『セカンドアフターvol.2』で「喪失と希望の対位法――『ほしのこえ』とエグザイルの詩学」という『ほしのこえ』論を寄稿していたてらまっとさんによる対談
「震災後の遠景――アニメから見た二〇一二年の風景」や、
二〇一二年批評として、前号に「時の流れに響かせて――『STAR DRIVER 輝きのタクト』の声」という『STAR DRIVER 輝きのタクト』論を寄稿なさっていた田中のどさんの
「不可解な怒り、盲目の話者――『氷菓』『Another』を中心に」
同じく前号で『もののけ姫』の音楽を徹底分析した対談「セカイの終わりのあとに聴こえたもの――『もののけ姫』が鳴らした崩壊と再生」のお二方である兎男さん(この方は第一号に「セカイの終わりを荘厳する思想――めんまが二度死ぬとき僕達は「あの花」と別離する』という『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない』論を寄稿していた方でもあります)とPIANONAIQさんがそれぞれ
「モーニング・エイジ」に生きる――ポスト3・11の幽霊たち」というエッセイ、
「三分三十一秒の奇跡――『坂道のアポロン』が奏でたジャズ」という『坂道のアポロン』を題材にした論考を、
それに加えて今回はTomonariさんという方が
「AKB48の世代交代――夢の場所からの再出発」と題したAKB48論を寄稿していらっしゃるらしく、本当に様々な話題を取り扱った内容になっているようです。
 当初、この寄稿の話を持ちかけられた時は「増刊号でライトな感じ」だと聞いていた為、今こうやって公式にアナウンスが出て他の方々の内容を知り、その内容の濃さに僕は非常に驚いてしまいました。(※尚、より詳しい内容に関しては、こちらの『セカンドアフター』公式ブログをご参照下さい→http://d.hatena.ne.jp/second_after/20121111/1352637368
 この告知から察するに、手に取って頂ければきっと損をさせることのない内容になっていると思いますので、もし文フリにお立ち寄りの際は『セカンドアフター』を是非とも宜しくお願い致します。エ‐65です。


メモ



















































 さて、ここからは追記というか、或る意味では個人的な雑記です。
 と言っても、これも前述の寄稿と関係はないこともないのですが、概ね無視して下さって構いません。気が向いた方だけ読んで下されば嬉しいです。
 まずはじめに、最近になって僕はある方々と〈殲滅ひょーぎかい〉なる名前の……何と言ったら良いんでしょうね? 読書会? みたいなものに参加しております。
 この会は、基本的には月に二作品、映像媒体と本媒体を課題作品として、その感想を皆で話し合うというもので、特別にレジュメを作ったりもせず、スカイプにて雑談交じりの軽いノリで行われる集まりです。実は先程に名前を挙げたすぱんくさんも、ここで出会った方だったりします。
 ちなみに、これまでの課題作品は、第一回が劇場版『ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』・『煙か土か食い物』(舞城王太郎)、第二回が小説『死者の書』(折口信夫)・映画『エンジェルウォーズ』(原題『Suckerpunch』)、第三回が『孤独な散歩者の夢想』(ジャン=ジャック・ルソー)・映画『精神』、第四回が『境界線上のホライゾンⅠ(上・下)』(川上稔)・劇場版『CLANNAD』、第五回が小説『ノーライフキング』(いとうせいこう)・漫画『シンプルノットローファー』(衿沢世衣子)・映画『第9地区』、そして次回の予定が劇場版『神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』・小説『赤頭巾ちゃん気をつけて』(庄司薫)となっています。これは、回毎に皆が候補を持ち寄って多数決で決めた結果です。主催のぼすさん曰く、「とにかく、バラバラな指向のものを摂取したい」だそうで、その意図はそれなりに反映されているのではないかと自分では思います。
 で、その通話の文字おこしを最近、メンバーのこうさきさんという方がやって下さっていて、例えばこんな感じになっています→http://pretheories00.hatenablog.com/entry/2012/11/01/002454
 僕はこれまで基本的に論考や評論などといったものには触れる機会がなく、ここ一年ちょっとという短い期間に独学で得た少ない知識を総動員して、この会に(殆ど必死でしがみつくように)参加している訳ですが、この回のまだ文字おこしされていない『第9地区』の会話の中で「インターフェース」に関する話題が僅かではありますが出ました。恐らく、その時は各々が『ノーライフキング』(と、その主題)も念頭に話をしていたのだと僕は勝手に想像していますが、今回の『セカンドアフターEX2012』に寄稿した拙稿は、割とこの「インターフェース」に重なる問題を扱っているのではないか、と自分では思っています。
 なので、ここからは、その話を兼ねつつ、今だから出来る「たられば」話を、つまり「寄稿した文章はあーすれば良かった、こーすれば良かった」的な補足をしてみたいと思います。つまり、これは書いた僕自身による僕への批判を読者の方に先んじてする記事であると共に、この記事を横目に拙稿を読んで頂くと僕の訳の分からないだろう文章も少しは理解して頂けるのではないか、という何とも見苦しい言い訳にもなっている訳です。

 では、本題に入りましょう。
 そもそも今回、僕は『ジョジョの奇妙な冒険』を漫画評論家の伊藤剛の著作である『テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ』を手掛かりにして読み解いて行こう、という試みを企てました。この本を読んだことのある方は想像が付くかもしれませんが、つまり、そこで提出された「キャラ Kyara」と「キャラクター Character」という概念を、具体的に『ジョジョ』を通して考えて行こうとしたのです。そこで僕が注目したのがまず「ジョナサン・ジョースター」と「ジョジョ」という「二重」の呼び名でした。「キャラ」と「キャラクター」を「人間」と「亜人間」として考える時、この呼び名の「二重性」はそのまま「ジョナサン=キャラクター」・「ジョジョ=キャラ」だと考えられるのではないか、というのが始まりになっています。
 よって、僕に求められたのは、この「二重所属」するものについて考察することです。ちなみに、僕は最終的にそうした荒木氏の描くものの呼び名に、荒木氏がプロテスタント系の神学校の出であることを含め、「被造物 Creature」という名を宛がい、それが「キャラ」と「キャラクター」の層に「二重所属」しているのだと整理しました(とは言え、実はこれを思い付いたのは拙稿を書き出してからかなり遅れてで、ぶっちゃけて言えばその名残は修正出来ずに文章中に残っています。というか、「被造物」という単語も第一節の纏めでようやく出て来るくらいです。プロテスタント系神学校出身であることも本文中では触れていませんし……。もっと早くに思い付いていれば、まず前提としてこの名前を出すことが出来て、もっと分かり易い内容になっていたように思うだけに残念です。今更ですが)。ちなみに、ここで僕が念頭に置いていたのは、批評家の東浩紀氏による著作『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』などで論じられていた、ジジェクらの云う「スクリーン」や「イメージ」、「シンボル」でした。
 そして、この「二重性」から僕は二つのことを論じます。それは「キャラ」の「キャラクター」に対する「先行性」と、「キャラクターを立てる(小池一夫)」為の「立体性」です。この「先行性」が「同一性」のないコマ毎の、或いは各話の、そして引いてはシリーズ全体の登場人物たちを「同じもの」として律することで、『ジョジョ』の長期に渡る連載を可能にしているのではないか。また、後者の「立体性」に関しては、これが例えば手塚治虫氏や石森章太郎氏が小説における「内面と外面」をどう画面上に分節化するか、その腐心の末に見出した「映画的映像手法」を要請するのではないか、という風に論じました。これらの内で主に検討したのは後者についてなのですが、そこで参照したのが『ユリイカ』での「荒木飛呂彦特集」の際に掲載されていた漫画研究家イズミノウユキ氏の「ヘブン・ノウズ・ハウ・ザット・ビジョン・イズ  〈ねじれる視線〉と〈神の視点〉の可能性」という論考です。その論考は荒木氏の特殊な「コマ割り」を綿密なデータとして調べ上げ、それを西洋美術史と併せて検討しつつ、荒木氏が漫画内のコマの傾きから実際に読者の目から発せられているはずの視線とは異なる「仮想アングル」という「斜めの視線」を生んでいること、そしてそこから更に「神の視点」に言及するという緻密、且つ大胆な論考なのですが、これに関して本来ならもっと整理し、或いはしっかりと引用をして字数を割くべきだったように思います(拙稿では、この「仮想アングル」について僅かに触れたのみとなっています)。漫画という媒体が、実は考えられている以上に「立体的」な媒体だというイズミ氏の主張は、正直、僕の論考を読んでもその素晴らしさが僅かながらも伝わらないかもしれません。これに関しては僕の力不足で本当に申し訳ないのですが、一番良いのはイズミ氏の記事を読者ご自身の目で確かめて頂くことだと存じます。ともあれ、ここで「キャラ」が「キャラクター」を(今回の場合「ジョジョ立ち」という「キャラクターを立て」る方法)を規定することがある、という議論が次へと繋がります。
 何故なら、イズミ氏と言えば『ユリイカ』の別の号、「マンガ批評の新展開」での「キャラたち/キャラクターたち 『三月のライオン』――零たちと読者たちの視点」では伊藤氏の云う「キャラ」の「前(プロト)キャラクター性」(ちなみに、これが僕が「先行性」と言い表したものですね)“だけでなく”「キャラクター」によって「キャラ」もまた生まれるという「後キャラクター性」、そして「キャラ」が単数ではなく、寧ろ複数の間の「関係性」から立ち上がるものでもあることを論じていることなども忘れてはなりません。拙稿では、後者は単語の幾つかに匂わせた程度で十全に取り扱えたとは言えませんが、前者のほうには相対的に焦点を当てています。そこで参照しているのは、先程も名前を挙げた東氏の『存在論的、郵便的 ジャック・デリダについて』で用いられた「コーラ kaora」という言葉です。これは元々、古代ギリシャの哲学者プラトンが宇宙創世論『ティマイオス』で用いた言葉ですが、これを「キャラ」を考える上での物差しとして引用しています。東氏は「コーラ」を、デリダが強調した「散種の時間性(=「決して現前しない奇妙な過去」)」に関して参照していました。そして、そもそも「コーラ」とは、一方では様々な形相を描き込まれる受容者であるが、しかしそれ自身は決して現前せず、あらゆるものを受け入れながら白紙のままであり続ける奇妙な「場所」です。そして、「キャラ」もまた決して私たちの前に「現前しない奇妙な過去」であるが故に、先程の文章を僕はこう書き換えます。“「キャラ」とは、一方では様々な「キャラクター」を描き込まれる受容者であるが、しかしそれ自身は決して現前せず、あらゆるものを受け入れながら白紙のままであり続ける奇妙な「場所」”だ、と。この“描き込まれる”という部分が「後キャラクター性」を意味する訳ですね。但し、今になって読み返すと、この後すぐ結論に行ってしまっていて、自分でも正直、何を言っているのか分かり辛いのではないかと思いました。ここら辺はもっと丁寧に語るべきだったなぁ、と反省しています。
 さて、ここまで述べて来た内容で、大体、拙稿の前半部分を紹介して来た形になると思います。後半では、前述した「キャラ/キャラクター」が第三部へ移るにあたって「スタンド/登場人物」というような形で(「後キャラクター性」を象徴するかのように逆転して)画面内へと取り込んで描き出されるようになったことを端緒にして、「キャラ」の問題が「郊外」を避けられないこと、そして最終的にはそうした「メタフィクション」性が辿り着く「読者の主体」(これを「視点」と言い換えても良いかもしれません)に言及して行きます。そこで主な問題となるのが、第四部における「郊外」と「匿名性」に関する「ユートピア/ディストピア」(そういえば、最初は気付いていなかったのですが、書いている内に何度も古代ギリシアの言葉――例えばこの「ユートピア」という造語の語源もそうですね――が頻出していたのは予期していなかったので自分でも驚きでした)の問題なのですが……本記事で扱うのはここまでにしておこうかと思います。この続きはまた、文学フリーマーケットが終わった後にでも機会があればやりたいと思います。
 ちなみに、後半で出て来る主なキーワードを挙げておくと、前述した「メタフィクション」や「郊外」、「匿名性」は勿論のこと、「固有名」、「自己同一性」、「交換可能性」、「大量死理論」、「不可視の大量死」=「届く筈のなかった声」=「ありえたかもしれない」、そして「祝福」と「未来」となっています。
 ……一応、書いてみたものの、ちょっとこれだけでは分からないですね(笑)
 後半部分も、もっと「匿名性」と「キャラ」を詳しく論じるべきだったりするのではないか、或いは「スタンド」について(特に五部の「G・E・レクイエム」など未読の方には分かり辛い能力)はもっと泥臭く説明を行うべきだったのではないか、また小説家で批評家でもあるミラン・クンデラは「芸術においては、[…]形而上的な問いは、具体的で明確な意味を持ち、答えがないなどといったことはまったくない」と述べましたが、であれば「神の視点」はもっと掘り下げられるべきであった、或いは単純にアウトプットをもっと上手に整理してから出来たら良かった、などと今になって後悔したりもしていますが、そういうことを言いだしたらキリがないので、ある程度の補助線が引けたところで止めておきましょう。

 で、ようやく「インターフェース」の話に戻って来るんですけれど。ここまで述べて来た「キャラ」と「キャラクター」の議論では、本来なら(即ち、後半で論じる荒木氏のような「メタフィクション性」を持たない限りは)「キャラ」が「決して現前しない」ものだと云う議論を組み立てて来ました。これは、まさに手塚が「映画的」であることにも関連するのですが、前述の『サイバースペース~』に則ればまさにモーリス・メルロ=ポンティらが論じているという「映画的視線」であり、「主体」の構図です。
 しかし、荒木氏の『ジョジョ』では「イメージ」と「シンボル」が共に画面内に描かれており、私たちはそれを読む(見る)ことが出来ます。そして、そうであるならば、『ジョジョ』を語る上では「映画」ではない、異なる隠喩を用いるべきことは明らかです。例えば、東が『サイバースペース~』で論じている「インターフェース的主体」はまさにその候補として挙げられて然るべきでしょう。つまり、「目」だけでなく「耳」や「手」に「分散」された「主体」や、「二重化」された(それは最早、「遮る」ものではなく「膜」のような)「スクリーン」上の「イメージ」と「シンボル」として「グラフィカルインターフェース(GUI)」を図式化すること。何故なら、そうした「インターフェース」は直感的に操作出来ることを求められるが故に、僕たちの「意識」などを解体し、再構築したもの(に近づいて行っている)と考えられるように思うからです(それが、僕がこうさきさんたちに言った「インターフェースは革命的」であると思う所以です)。
 その意味では、〈殲滅〉メンバーこうさきさんが最近、ずっと思案している幾つかの図は意味のあるものであるように思います(※例えば、その一つがこのような図でした→https://twitter.com/k0usaki/status/265805305965846529)。
 勿論、僕と彼の問題意識は異なる為、対象とするものも違って来るでしょう。こうさきさんはフロイトの「マジック・メモ」に関する議論から、この「2カラー先生」を持ち出して来ているのだと思いますが、僕は元々ニコ動のコメントシステムなどに興味がある(それで以前にブログ記事を書いたこともありましたね)ので、どちらかと言うとPCとブラウザ、そしてキーボードやマウスといった素材を扱うことになるでしょう。しかし、それを考える上で、こうさきさんの云う「処女性」に対する「童貞性」などのキーワードは、マウスやキーボードといった入力装置が決して画面上に直接、刻み込むものではないことなどから通じるものであるように感じています。
 ……なので、そのような感じの場所に、次の僕をアップデート出来れば良いなぁ、という整理が今回の寄稿で出来ました。そうやって、一歩ずつ進んで行きたいですね。
 ただ、当分は纏まった論考を発表することはないと思います。今回の寄稿では、前回とは全く異なった戦略を立て挑んだ(勿論、共通する意図は存在しますけど)訳ですが、やはりもっとインプットをしなければならないことを再確認しましたし(あと、多言語の勉強もちゃんとしないといけないかも)、そもそも他にもやらねばならない作業を抱えています。僕としては、そっちを重点的に進めたい(というか、最近は御無沙汰だったので、まずはリハビリから始めないといけない)のです。という訳で、この辺で記事も終わりたいと思います。
 長々とアレコレ書いてきましたが、もしも現地で『セカンドアフターEX2012』を手に取ってみようという方がいて、拙稿をお楽しみにして頂けたら、これ以上に嬉しい事はありません。また、僕のことなんか関係なく、他の方々は非常に充実した内容であると思いますので、再度になりますが皆さんどうか宜しくお願い致します。
 あと、僕は当日、文フリに行けるかは正直、分かりませんが、もし行けたとして、そんな僕と遭遇してしまった場合はお手柔らかにお願いしますね(笑) 以上、人見知りのtacker10の告知と雑記でした。

『人類は衰退しました」とどう向き合うべきか、僕には分からない。

  • Day:2012.07.10 19:29
  • Cat:日記
 僕は田中ロミオという作家について結論を出せずにいる。よって、この記事は結論を提示することを目的としたものではなく、頭の中にあるアイデアをそのままメモ書きした程度のものだと捉えて貰う他ないことは最初に告白しておこう。ただ、その中で他の誰かに有益な、田中ロミオの作品を楽しむ為のきっかけが一つでも生まれるなら、こんなに嬉しいことはない。

 そもそも、田中ロミオとは誰か?
 彼は元々、恋愛シミュレーションゲームのシナリオライターで、その代表作には例えば『CROSS†CHANNEL』や『ユメミルクスリ』などがあり(尤も、彼は田中ロミオという名前を使う以前から、山田一――代表作に『加奈 〜いもうと〜』、『星空ぷらねっと』、『家族計画』など――という名義で既に評価を得ていた疑惑がある)、また現在は引き続きゲームのシナリオを手掛けると共に、小学館ガガガ文庫から幾つかの小説を出している作家だ。
 僕の管見では、はじめ彼のイメージは「虚構が現実を侵食するブラックユーモアを無邪気に描いておきながら、更にそのユートピア/ディストピアを無邪気に壊して、現実に帰っていく」作家“だった”。
 例えば、彼の(シリーズものを除けば)最も新しい小説『灼熱の小早川さん』を参照してみよう。
 同作は表向きには、何でもそつなくこなす少年・飯島直幸が、生徒の自主性を謡う(その実態は単に生徒に全てを丸投げ)進学校に入学し、彼の望んでいた自由を得たと思ったのも束の間、突如クラス代表として現れ、規律でガチガチに皆を縛り上げ始めた少女・小早川千尋と衝突する姿を描いたラブコメ作品である。飯島は他のクラスメイトからその如才のなさを買われ、小早川との折衝役を無理矢理押し付けられる。しかし、実はインターネットで「痛い人間探し」という悪趣味を持つ彼は、小早川がネット上のブログでクラス内の悪事を如何にして裁くべきかを書き綴った「インターネット最高裁」を日々更新していることを知っていた。そこに書かれていることを手掛かりとしつつ、彼女とクラスの板挟みを何とか乗り切っていく内に、飯島は次第にクラスメイトと彼女のどちらが正しいのか分からなくなっていく。そして、二人は互いに惹かれ始めるのだが、規律を信念とし、男女交際を不純なものだと信じてやまない小早川は、彼を拒否してしまう。そこから小早川は方向性を見失い始め、彼女は目標にしていた生徒会選挙で惨敗してしまい、更にそれを機にブログも次第に危険な方向(扇情的な自分撮り写真をアップするような)へと変化していった。
 その結末がどうなるのかは、実際に作品に触れて確かめて頂きたいが、ここで何よりも注目すべきは作中のブログが田中ロミオの元々手掛けていたような恋愛ゲームにおけるwikiなどの「攻略サイト」の寓意になっている、という点である。
 要するに、ここで描かれているのは現実の恋愛がシミュレーションゲーム化するという、虚構が現実を侵食する様子を戯画化したものだと言えるだろう。例えば、もしも私が高校生で、同級生に好きな娘が出来たとしよう。そして、たまたま彼女のtwitterアカウントを発見してしまったとする。そこで、彼女が「今日は体調が悪い」と朝に呟いていれば、学校で「体調悪そうだね」などと、少し彼女に気を遣ったことでも言ってやることは現に可能なのだ。
 こうして観るとこの小説が抉り出しているのは、「スクールカースト」であるというよりは寧ろ、「ネットが現実を侵食したユートピア/ディストピア」であると理解することが出来る(或いは、同作での「空気」や「炎上」もネットの用語としてはごく身近なものとして存在していることからもそれは明らかだろう)。
 そして、そのような世界を田中ロミオは結末において(ある種の無邪気さと共に)崩壊させてしまう、ようにも見える。
 例えば、彼が『灼熱の小早川さん』以前に書いた作品として『AURA 魔竜院光牙最後の戦い』があるが、その結末では、同じように虚構が現実を侵食する(クラス内で対立していたはずのポピュラー層が、「厨二病」と揶揄される妄想癖を患ったオタク層によって感化されてしまう)様子を描いておきながら、その横でヒロインが主人公に「普通のやりかたを教えて」と言い放つ姿が描かれ、ここには『灼熱の小早川さん』との共通点を見出せるだろう。
 しかし、ここで僕が再度、問うべきは、そもそも本当にこのような虚構と現実の対立が存在していたか否か、である。
 僕は、実際にはこのような対立を捨て、「インターネット出現後の世界のユートピア/ディストピア」を描いているのだ、と理解するのが正しい、と思い至るようになった。そこでは単純な「現実に帰れ」というメッセージは機能していない(つまり、どちらが正しいという問題自体が提出され得ない)。そうではなく、田中ロミオの作品ではそもそも不可逆的に現実と虚構が折り畳まれた世界としてあり、「その中で、どう生きるか」こそが重要なのではないか。
 そして、それが最も分かり易く現れている(いく)可能性が高いのが、現在アニメ化もされている人気作『人類は衰退しました』ではないだろうか。

 前述の二作品と同じく小学館ガガガ文庫から発売されている『人類は衰退しました』は、その名の通り、私たち人類(「旧人類」)が衰退し、代わりに「妖精さん」と呼ばれる「新人類」が繁栄している世界を、両者の間を取り持つ調停官である「わたし」の視点から描いたSFである。「妖精さん」は10㎝程の身長で可愛らしく、しかし一方ではまるで魔法のようにさえ感じられる高い技術力を持つ存在だ。その癖、記憶力に乏しく、興味を持った時は数十人ででたらめな文明を築き上げるが、飽きればすぐさまそれをほっぽり出してしまうという、厄介な存在でもある。そのような「妖精さん」に対して、「わたし」は何をするでもなく、ただ漫然と振り回されるのだ。彼女は決して、その態度を自分からはっきりさせることはない。ここに、僕は田中ロミオの注目点があるように思う。どういうことか。
 まず、既に「インターネット」が田中ロミオの作品において重要であることは触れたが、同作においてもそれは一貫していると考えることが出来るだろう。マーシャル・マクルーハンは一九六〇年代に『グーテンベルクの銀河系』において、発展する電子メディアの延長線上に「地球村 グローバル・ヴィレッジ」の出現を予測していた。そこでマクルーハンは、一方で「村」になるのは地球だと述べ、他方では地球の上に覆い被さったメディアそのものだとも述べている。つまり、そこでは「この私」は二重化される、という奇妙な体験を強いられることになる(このような体験は、PCのインターフェイスによって、見えていた「イメージ」と見えなかった「シンボル」が二重化される「ポストモダンの主体」として説明されると云われている)。
 恐らく、「わたし」の住む村は、まさにそのような「地球村」的な電子世界の戯画化として描かれていると言ってよいだろう。であれば、この作品における「村」とは、例えばウィリアム・ギブソンが創り出した「サイバースペース cyberspace」(『ニューロマンサー』)の一種だと捉えるのが正しい。しかし、ここで問題になるのは、そもそもある空間とは「不気味な(unheimlich)もの」を遠方に抑え込むこと、「悪魔払い conjuration」によって成り立っており(例えば、私たちは死者を墓地という遠方に押し込める)、ギブソンもそれに倣っていた、ということだ。つまり、そこでは「不気味なもの」の体験は回避されている。
 ちなみに、「不気味なもの」とは何かを、まずはっきりとさせておかねばなるまい。ここではジークムント・フロイトを引いておこう。彼は「不気味なもの」の体験を意識と無意識、複数の情報処理経路の「速度」の衝突によって説明した。私たちは、ある人について想いを馳せている丁度その瞬間に、その本人と出会ってしまう、という奇妙な体験をしてしまう。それはフロイトによれば、無意識化では遠方に見える彼を認識しているものの、それが何らかの理由(個人的な好き嫌いなど)によって抑圧されたるのだが、しかしそれは連想の糸を辿り、その相手を空想の形として意識に上らせ、そしてその結果として想いを馳せていた相手から声を掛けられるという、「不気味な」体験を生むのだと云う。ここで重要なのは、ある情報が二重化され、その「速度」に差が出ることで「不気味なもの」が生まれる、ということだ。それはまさにマクルーハンの「地球村」において二重化されるが故に起こりやすくなる体験だと言っても差支えはないだろう。例えば、twitterで行った発言がRTを繰り返される内に、再び自分のタイムラインへ舞い戻って来た時の「既視感 déjà-vu」はまさにそれである。
 ここで、漸くだが『人類は衰退しました』に立ち返ろう。実は同作に登場する「妖精さん」は、まさに前述した「不気味なもの」として存在している。何故なら、彼らが築き上げる文明とは、常に私たち「旧人類」の文化をパロディーとして矮小化したものとして描かれているからだ。その前衛的でありながら、何処か「既視感」を引き起こす「妖精さん」の仕業こそ、「不気味なもの」の体験である。そして、それはボードリヤールの云う「シミュラークル」に等しいものだろう。この言葉が『シミュラークルとシミュレーション』という本で公になったことは、前述した「シミュレーションゲーム化する現実恋愛」、引いては田中ロミオという作家と密接に関係している。何故なら、「シミュラークル=オリジナルなきコピー」という無限交替=無限後退こそが、「『衰退』」であることは明白であるからだ。
 無論、これに対して田中ロミオの描く「わたし」の態度が決定されているならば、それは単純にギブソン的な読解、つまり衰退したセカイを創ることで「不気味なもの」を「悪魔払い」しているのだ、と捉えることが出来る。しかし、前述した通り、「わたし」は「不気味なもの」に実際に出会い、しかもそれに対して極めて曖昧な態度を取り続ける。よって、本作において、「不気味なもの」は回避されているのかが、必ずしも鮮明ではないのだ。だとすれば、私たちは『人類は衰退しました』、引いては田中ロミオを考えるに当たって、ギブソン以外の誰かを物差しとして挟み込まなければならない。
 そこで私が挙げたいのはフィリップ・K・ディックである。何故なら、彼の作品では、「現実」と「虚構」の無限交替を作り上げる入れ子構造を作った上で、更にそこから抜け出す契機としての「不気味なもの」が作中に挿入されているからだ。そこでは世界の構造は現実と虚構の二項対立ではなく、部分的に現実で部分的に非現実という、全体性を失ったモザイク状の、或いはパッチワーク状のものとして描かれている。そのような中で、主人公が真偽を如何にして決定するかという「戦略」が重要視されているのだ。寧ろ、こちらの方が田中ロミオの「戦略」に近いのではなかろうか。
 また、実際ディックには、より田中ロミオとの親和性のあるギミックが頻出する。例えば、ディックはその小説において「不気味なもの」を「可愛いもの」としてズラすことに長けていると云われる。ここに『人類は衰退しました』の「妖精さん」との関連性を見出すことは容易だ。また、ディックの小説において「人間」とはその実態に関わらず(例えば、それがロボットでも)「いかにそれが親切か」、或いは「感情移入 empathy」によって規定されていることが、ローレンス・スーチンによって指摘されている。このような態度は田中ロミオの『人類は衰退しました』の「妖精さん」の特徴(彼らは極めて「親切」であり、その可愛さは「感情移入」を容易にする)だけでなく、例えば彼の手掛けた『CROSS†CHANNEL』に登場するギミックにも見出せる。何故なら、ディックの『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』で主人公は「フォークト=カンプフ測定法」という「感情移入度テストによって人間を見分けるのだが、『CROSS†CHANNEL』において田中ロミオは「適応係数」という特定の個人の一般社会との適応、あるいは非適応の度合いを表した数値を登場させているのだ。
 では、ディックはこうした小説で、主人公にどんな「戦略」を掲げさせていたかが、田中ロミオの小説にとっても極めて重要であると言えるだろう。それはつまり、どうすれば二重化され、「他我」が不毛に探し続けられる世界で「無限交替」に陥ることを避けられるのか、という問いとなるのだから。
 そして前述したギミックにも表れている通り、ディックの「戦略」を簡潔に示せば、(それが例え疑似生物であっても)コミュニケーションの表面を、つまり見たままの他者を他者として認めることに他ならなかった。「シミュラークルに覆われた世界で不毛な無限交替に陥らないためには、人々は不気味なものに感情移入して生きるほかない。」(『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか+』)のだ。
 これを、田中ロミオの小説、或いはアニメ化をされた『人類は衰退しました』に相応しい形に言い換えてみよう。
 それは、シミュラークルに覆われた世界で不毛な無限交替に陥らないためには、人々はキャラクターに萌えて生きるほかない、である。そうして見ると、『人類は衰退しました』の「旧人類」と「新人類」の構図は、一気に逆転する。何故なら、私たちが取るべき前述の「戦略」こそ、「新人類」たる「妖精さん」の生き方に他ならないからである(そして、実際にこの小説、アニメを消費する私たちは、そのような受容を「実践」させられるのだ)。

 但し、ここで言う「萌え」がそもそも人によって様々に意味が違うことは注意しなければならないだろう(ちなみに、私がここで言う「萌え」は、データベースとシミュラークルの間を撹乱しながら行き来する往還運動である)。また、この『人類は衰退しました』という作品は現在も続くシリーズものであり、もしかしたらこの先で主人公たる「わたし」が、ここで書いたものとは全く別の「戦略」を取ることもあり得ることは忘れてはならない。しかし、何にせよ、このSF作品の行く末には注目する価値があるのではないか、と僕はそう感じている(或いは、これこそが何重にももって回った「わたし」的な「実践」と言えるかもしれないが)。
 予告していた通り、この記事はきっちりとした結論を出すものではなかったが、長々と書いた中で、その面白さだけでも伝われば幸いである。

アニメ『氷菓』を満たすもの――または「評価」とは何か

  • Day:2012.06.19 03:48
  • Cat:日記
 単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい。――坂口安吾『FARCEに就て』

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 京都アニメーションを巨大な一人の作家として見做し、その作品の歴史の変遷を紐解こうとした時、そこに立ち現われてくるのは果たして作中の「空間」を満たすものとは“何か”、という問いではないだろうか。京都アニメーションとは、その“何か”を追求して来た作家として、ある。

神は言われた。「光あれ。」こうして光があった。
(『旧約聖書 創世記 第一章 第三節』)

 この余りにも有名な一節は、京都アニメーションだけでなく、そもそも現在までのアニメ(或いはオタク)史において極めて重要な文言だと言ってよい。何故なら新しい“光”の表現方法とは――例えば、出統の表現演出や、新海誠の登場によって端的に示されたデジタル技術の進歩が分かりやすいように――今や私たちにとって非常に基礎的なものとなる程の発明としてこれまで常にあったからだ。それは現代社会で例えるならインフラストラクチャーとしてのパソコンや携帯、或いはインターネットの発明に近しいものでさえあった。
 ――神。アニメに限らず、一般に日本でオタクカルチャーに分類されるものは、文字通り「漫画の“神”様」と呼ばれた手塚治虫によってその幾つかの基礎が創造されたと言っても過言ではない。つまり、「初めに、神は天地を創造された。」のであり、そしてその「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。」のだ(無論、この短い三節に――それが例えサブカルチャー史の一部と云えども――長きに渡る歴史を纏めてしまうのは聊か乱暴ではあるが、しかしここに多くの示唆的な言葉が含まれているということは何度でも強調しておきたい)。
 そして、既に述べたように様々な技術の進歩によって“光”の表現方法は幾度となく革新と実践がなされてきた。それは京都アニメーションも決して例外ではない。例えば彼らが初めて元請けで手掛けた賀東招二の人気ライトノベル『フルメタル・パニック!』シリーズのアニメ化(2002年)は、特に二作目のアニメ『フルメタル・パニック! The Second Raid』(2005年)の最終話において生きる気力を失いかけた少年・相良宗介を画面の奥からヒロイン・千鳥かなめが微笑み諭す際、夜明けの“光”が暗かった街を後光の如く照らし出していくシーンに最も明らかなように、まさにそのような作品としてあった。そこで描かれていたのは、別役実の云う「遠景」から「近景」までの「空間」を“光”が満たしていく光景なのである。「光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。」
 また、それと並行するようにアニメ『AIR』(2003年)がある。

神は言われた。「水の中に大空あれ。水と水を分けよ。」
(『旧約聖書 創世記 第一章 第六節』)

 この後に、京都アニメーションは『Kanon』(2006年)や『CLANNAD』シリーズ(2007~2009年)といった、所謂「key」のアダルトゲームを原作としたアニメを手掛けて行くことになるのだが、ここで重要なのは、そもそも「セカイ系」の重要なキーパーソンとも見做される新海誠が、多くの論客が云うようにこうしたアダルトゲーム業界の出身であったことよりも先に、彼(彼ら)が優れた“光”の表現者であったということだ。つまり、「セカイ系」というジャンルは、常に「空間」を満たす“光”の表現として世に現れており――それは言い換えれば「セカイ系」とは“光”によって「近景」と「遠景」がデジタルに繋がれる/満たされる作品を指す、たったそれだけの言葉にまで拡大され得るということを示している――京都アニメーションもまたそれに忠実だったということである。そして、『AIR』のラストは子どもたちが「水と水を分け」た水平線の先=「外部」に未来を託すことで幕を閉じる/と同時に開け放つ(ここから『Kanon』、『CLANNAD』各論や、他の作家の作品――例えば『ONE PIECE』などとの比較を行うのも吝かではないが、しかしそれでは本題から余りに話が外れてしまいキリがないので留意するにとどめておこう)。
 更に「key」のアニメ化と時を少し前後する形で京都アニメーションが手掛けたのがアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』(2006、2009年)である。この“メタ”「セカイ系」とも呼ばれる作品は一見すると対立項にあると見做しがちな「セカイ系」と「空気系」(ここで注意を促したいのは、それを「日常系」とは些か異なったものとして考えなければならない、という点だ)が、実は相反するものではなく、寧ろ極めて密接な連続性を持ったものであることを容易に理解させてくれる。それを第12話「ライブ・アライブ」を例に取って説明してみよう。この物語では主に(自分では知らないが)神の如き能力を持った少女・涼宮ハルヒが様々な活動を通じて次第に周りの世界へと着地して行く姿が語り部・キョンの視点から描かれる。そして、この挿話でも文化祭の軽音部のライブに参加することになったハルヒが、そのライブを通じて彼女たちの所属する「SOS団」や、その他の人々と触れ合うことになるのだが、それは以前までとは違い、あの舞台を照らすスポットライトの“光”(それはハルヒの作り出したセカイから帰還する際にも既にあったものだ)だけではなく、“空気”を震わせる“音声”をも通して行われている。それはつまり、京都アニメーションが“光”から、それが通過する「空間」を満たしていた“空気”(或いはそれは、実は『AIR』=「空/空気」という示唆的なタイトルの時点で既に仄めかされていた、と捉えることさえ出来るかもしれない)を遡及的に発見した、ということに他ならない。だとすれば、その中を伝播するような“音声”のライブ感こそ、私たちが現在も享受している「空気系」の基本とも言うべき「アウラ」(元々はギリシャ語、ラテン語で「息吹」)だと捉えることが出来るだろう。例えばこの後に京都アニメーションが手掛けるアニメ『らき☆すた』(2007年)やアニメ『けいおん!』(2009年)はまさにそうした、まるで声を挙げればそれだけで伝わる=奇跡になり得る、とでも云うかのような作品としてある(それは『らき☆すた』のダンスOPがラストに持ってこられたシーンや、『けいおん!』における各ライブから容易に理解することが出来るだろう)。それ故に、そこには両者の媒介となる“空気”を生み出すために、「聖地巡礼」さえ可能にするような、京都アニメーションの細やかな書き込みが必要とされたのではないだろうか(また、その伝播が“音声”によってなされるが故に、声優などの重要性が格段に上がったことも間違いない。第三次声優ブーム以降のオタクカルチャーにおける声優の人気と、その重要性を知らぬ者は最早いないだろう)。
 そしてアニメ『けいおん!!』(2010年)、アニメ映画『けいおん!』(2011年)では、そのような“空気”を媒介として、「いま、ここ」と「いつか、どこか」を軽やかに飛翔する様が描かれ、それはまるで“メタ”「空気系」とでも言うべきアニメ『日常』(2011年)へと繋がって行く。それは彼らが更に俯瞰する立ち位置へと至ったことを意味した(しかし、ここで断っておかなければならないのは、これまで述べたことは勿論、京都アニメーションだけの発見ではない、ということである。例えば、私たちは『AIR』などの「セカイ系」によく見られる自己言及的入れ子構造から『けいおん!』における「空気系」や『日常』のメタ「空気系」作品への流れを、他には今敏のアニメ映画『千年女優』(2001年)からアニメ映画『東京ゴッドファーザーズ』(2003年)への流れの中などにも同様に見出すことが出来るに違いない)。

 ここまで矢継ぎ早に、かなり大まかな(というよりも、幾つか自分が観ていない作品は抜かさざるを得なかったため、そこはご了承願いたい)京都アニメーションの歴史を追って来た。それは一言で表すならば“電波から伝播へ”、或いは“俯瞰へ/メタ志向”とでも言うべきものである。そして、それを可能として来たのは、デジタルによる“光”の表現技術、“空気”を存在させ得る緻密な描写技術の裏打ちであった。
 そして、そんな京都アニメーションが現在放映中の作品が、米澤穂信のミステリ小説をアニメ化した『氷菓』だ。では、この『氷菓』の「空間」を満たす“何か”とは、果たしてどのようなものだろうか。それを語るためには当然のことながら、アニメ『氷菓』について具体的に言及して行かなければならない(ちなみに、ここでは米澤の、例えば映画化もされた『インシテミル』などの他作品や、その経歴と人気などに触れることはせず、アニメ『氷菓』単体への言及を行うこととする。また、この記事を書き出した時点ではまだ第七話までしか放送されていなかったので、言及範囲もそこまでとする)。

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 まず、アニメ『氷菓』の「空間」を満たすものについて語る前に、これから確認しなければならないのは、このアニメ『氷菓』が、(例え、事件らしい事件が起きなくとも)紛うことなき「ミステリ」と「ミステリアニメ」として成り立っている、という二点である。そして、それと並行してこの記事の副題でもある「評価」について考えを巡らせねばならない。それをなるべく分かりやすく行うために、ここでは第一話ではなく、第七話(と、併せて第六話)から触れていくという、少し面倒な構成を取ることになるが、ご了承頂きたい(尚、言うまでもなくこの先はこれまでとは比べ物にならない程の重大なネタばれを含むので、未見の方々はご注意願いたいと思う)。

 アニメ『氷菓』第七話「正体見たり」は、本作の主人公・折木奉太郎がヒロイン・千反田える、友人の福部里志、伊原摩耶花らと共に旅行へと出掛けた先の温泉で、ある不思議な事件――夜中に、えると摩耶花の二人がまるで首を吊っているかのような影を旅館の中で見てしまう――に出会うというものであった。この挿話の根底にあるのは、タイトルからも見て分かる通り、「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」という諺である。アバン、葉にとまっている(かのように見える)てんとう虫が突然、真横へと奇妙な動きを見せるシーン。ここで最初、視聴者はぎょっ、と違和感を覚えるに違いない。それはまさに幽霊を見てしまったかの如く。しかし、カットが切り替わると、奉太郎たちが実はバスに乗っており、てんとう虫が窓の外の葉ではなくバスの窓にとまっていただけなのだという事実が明らかになることで、これはすぐさま解消される。このシーンが前述した諺の意味「薄気味悪く思ったものも、その正体を知れば怖くも何ともないということ」を表象することは明白だが、ここでもう一歩踏み出して考えれば、前述の諺が「怖いと思っていると、何でもないものまでが、とても恐ろしいものに見えてしまうこと」の喩えであることに思い至る。言い換えれば、「人は見たいものしか見ない」ということだ。実はこれこそがこの挿話において最も重要なものであり、それは先程のシーンで既にバスに乗っていることを当然知っていたが故に何ら驚くことなく窓から里志の髪の毛へ飛び移ったてんとう虫を冷静に見てとってしまう奉太郎も決して例外ではない。彼の回想シーンにおいてえるの顔に書かれている(かのように見える)「温泉に行きたい」も、壁越しの音から彼が妄想する「入浴中のえる」(を見ているかのような)の映像も実際は彼が「見たい」からそれが見えて/描かれているのだ(だからこそ摩耶花の入浴は作中では写されないのであり、そう考えると奉太郎も至極、高校生らしいと言えば高校生らしい可愛さを持っていると言える“かもしれない”)。そして、この挿話のラストは、それまでずっと「(仲の良い)姉妹が欲しかった」と言って旅館の娘である善名姉妹に憧れていたえるが、騒動の真相を知って彼女たちの不仲を疑い落胆してしまった矢先に姉が妹を負ぶう姿を見つけるところで幕を下ろす。これを、結局はえるが「見たいもの」でしかなかった、と指摘することは簡単だ。確かに、この挿話のみを見れば、一見すると幸福でありながら実はそれとは裏腹にビターな物語を展開している、ように見えなくもない(このビターが奉太郎にとって、引いては作品全体にとって重要なものであることは「灰色」という言葉が奉太郎のモットーであることからも間違いない)。
 しかし、実は第七話は、第六話『大罪を犯す』と併せてもう一度観返すと、実は更にビターな、或いは奉太郎の云うような「灰色」を描き出していることが分かる。どういうことか。第六話「大罪を犯す」は、えるが授業進度を間違えた数学教師に対して怒ってしまったのは何故かを探る挿話である。ここで重要なのは挿話の最後、見事に真相を解き明かした奉太郎の独白である。

「俺は千反田の何を知っているというのか。千反田の行動を読めることはあっても、心の内まで読み切れると考えては、これはアレだ、大罪を犯している。慎むべし、慎むべし」
(アニメ『氷菓』第六話「大罪を犯す」)

 この第六話の独白が、第七話でも(引いては作品全体の)通奏低音として響き続けている以上、それはあの最後に描かれた仲の良い(ように見える)姉妹の姿にも当て嵌まる。つまり、私たちはその内実を決して容易に決定は出来ないのだ。言い換えるならば、私たちはあの姉妹の光景について白黒を付けることも出来ないまま、まさに奉太郎が云う「灰色」でいざるを得ない、ということである。このように、『氷菓』は本来であればパラドキシカルな分岐を、見事に一つに折り畳み、「重ね合わせ(量子力学)」た物語として機能しているのだ。このような物語は、そもそも京都アニメーションの歴史の中で何度か触れたメタ、という言葉と結びついている。古典的メタフィクション研究の書物として知られるパトリシア・ウォーの『メタフィクション――自意識のフィクションの理論と実際』には、以下のような記述がある。

メタフィクションは、ある意味で、一種のハイゼンベルクの不確定性原理を基礎としている。それは、「物質の最も微小の構成要素の場合、各観測過程は大きな擾乱を惹き起こす」(ハイゼンベルク)、そして観測者は観測対象をいつも変えているから客観的世界を叙述できない、という認識である。しかし、メタフィクションの関心事はこれよりはるかに複雑である。というのも、自然の映像と言わないまでも、人間と自然との関係の映像は少なくとも叙述できる、とハイゼンベルクは信じているが、メタフィクションではこの過程さえ疑わしいことが示されているからだ。事物を「叙述する」ことはどうしたら可能なのか。メタフィクション作家は一つの基本的ジレンマをかなり意識している。それは世界を「再現」する仕事に着手したなら、その世界自体が「再現される」ことの不可能なことを即座に理解する、ということだ。文学フィクションで実際「再現する」ことが可能なのはその世界の言説だけである。それでも、言語の一連の関係をまさにその関係自体を分析の道具に用いて分析しようとするなら、言語はすぐに「牢獄」になってしまい、そこから脱出できる見込みはない。メタフィクションはこのジレンマを考察しようとしているのである。
(パトリシア・ウォー『メタフィクション――自意識のフィクションの理論と実際』、結城英雄訳)

 この「牢獄」にはもう一つの名前がある。それは「ゲーデルの不完全性定理」だ。そして、それに囚われながらもあがき続けてきた者たちの一人が「ミステリ」探偵(と、その作家)なのではなかっただろうか。何故なら、まさにこの「ゲーデルの不完全性定理」を引き合いに出して語られることの多い「後期クイーン的問題」は(無論、そのような問題は存在しない、と述べる方々がいることも確かだが)、その指摘がされて以降、常に「ミステリ」を悩ませ続けてきたものだからだ。ここでその問題を端的に纏めてしまえば、「作中で探偵が最終的に提示した解決が、本当に真の解決かどうか作中では証明できないこと」(第一の問題)と、そこから導き出される「作中で探偵が神であるかの様に振るまい、登場人物の運命を決定することについての是非」(第二の問題)である。つまり、それは「探偵=作家」、ないし「推理=創作」におけるアイデンティティの崩壊だと言えるだろう(そして、それは「ミステリ」だけでなく、全てのジャンルにおいて――その筋道は違えども――ほぼ同様の問題を抱えて来たと言ってよい。「私たちには最早、語り得るものがない」、と)。それ故に、『古典部シリーズ』もまた、その系譜としての「ミステリ」という場で戦い続けている作品として位置付けることが出来るのではないか。何故なら『古典部シリーズ』の全体を見通すと、実は多くの挿話で、その形は違えどもある種の「密室」事件を扱っていることが見えてくる。彼らが拘泥するのは、この「密室」=「牢獄」なのである。その上で、奉太郎は、自身の「灰色」についての起源を持たない(彼は、自身のそのモットーが何故に生まれたのかについての記憶を持たない)まま「保留」し、しかしそれでも語り続けている。それは、ある意味で戦い続けることと同義なのだと言えるだろう(その意味では、同じような作家に西尾維新の名を挙げることも出来る)。
 勿論、だからと言って全ての結論は完全に「保留」にし続けることは出来ない。『古典部シリーズ』も、物語が進めばその結論=結末をやはり語り出すだろう。そして、それと同じように、いつかは『古典部シリーズ』にも「評価」が下される時がやって来る。
 しかし、どうやって?
 既に述べて来たように、『古典部シリーズ』で描かれている内容は、決してその内実を容易に私たちの主観で決定など出来ないものである。ここで私は、『古典部シリーズ』への「評価」は個人による読解によっては決定しない、などと言いたいのだろうか。まさしくそうだ。そもそも、あらゆる作品の「評価」とは、例えどれだけ優れた読解が存在しようとも、それが解釈である限りはそれのみに帰することは決してないのだ。しかし、それと同時に、世の中には名作と呼ばれる作品が存在しているのは歴とした事実である。では、それらは如何にして名作になったのか。その一例は、今回アニメ化に当たって表題に選ばれた『氷菓』、つまり第一話から第五話の部分にて描かれている。が、それを語る前に、まずはアニメ『氷菓』における真相への迫り方を追う必要がある。

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 前節までは、京都アニメーションの歴史における“光”から“音声”の発見を経て、『氷菓』が「ミステリ」であることを確認して来た。しかし、これだけでは小説『古典部シリーズ』が優れていることを示すのみで、アニメ『氷菓』が優れていることにはならない。ならば、ここからは予告した通り、アニメ『氷菓』が如何にして「ミステリアニメ」として成り立っているのかを、映像面を対象にして捉えて行く必要があるだろう。アニメ『氷菓』における第一話から第五話までは、この『古典部シリーズ』のアニメ化に当たって表題にも選ばれた原作の一冊目『氷菓』事件が描かれている(但し、第一話のBパートのみ、短編集である四冊目『遠回りする雛』から挿入されている)。ここで問題になるのは、如何にして京都アニメーションが小説『氷菓』をアニメ『氷菓』として翻案しているか、である。早速だが本題に入ろう。
 第一話の冒頭、部活勧誘に必死な「薔薇色」の高校生活を背景に、それとは全く違った手前のレイヤーを主人公の奉太郎がモノローグめいた語り(実際には、それは里志へ語りかけている)と共に歩いて行く。ここで移動する奉太郎は、評論家の柄谷行人の言葉を借りれば「風景」から切り離された、「周囲の外的なものに無関心であるような内的人間 inner man」(『日本近代文学の起源』)であると言える。そして、そのような「内的人間」において初めて逆説的に「風景」が、例えば一つの形としてはあの部活動に勤しむ「薔薇色」の背景として見出されるのだ。そこで、この奉太郎の画面の右から左への上手側の動きを、「風景」への観察と語りに関する運動性であると置いてみよう。例えばその後のシーンで、古典部部室に入った奉太郎はまさに上手から画面奥に立つえるを見出す。そして彼らが会話を始めると、更に階層化するように彼らを上手から観察していた里志が現れて千反田家の説明を行う、といったようにだ。その逆に、左側から右側への下手の志向は語り部への対応と、聴く/語らせる側である。第一に、アニメ『氷菓』の物語は、この左右の往復運動によって駆動されて行く。
 無論、全てがそのような左右の動きだけで構成される訳ではない。画面という二次元において左右があれば、上下の(それは同時に手前と奥の三次元でもある)運動もあるのが必然である。もう一度、奉太郎が里志に語り掛けるシーンへ遡ろう。前述した通り、ここでは上手から奉太郎が語り掛け、それを下手の里志が受けている。つまり奉太郎が語り掛ける一人称、聴いている/語らせている里志は二人称である。そして、奉太郎が「灰色の人間はいるんじゃないか?」と里志に問うと、カットは上下に里志と奉太郎を配置する形へと替わる。そして、そこから切り返すようにして視聴者と相対する正面に(気付かぬ内に)語られていた三人称の奉太郎が現れるのである。つまり、この画面中央の上から下、或いは手前から奥への志向の中に語られるべき対象が隠れていると捉えられるのだ。例えばその後すぐ直後には、門構えの中心、即ちまさに画面の中央下にえると奉太郎が部屋に入る様子が描かれているシーンがある。この古典部部室に鍵が閉まっていた密室の謎こそが、語られるべき謎=三人称であることは明白だ。更に解決部分まで続けてみよう。そこで見出された密室の真実とは、彼らがいた古典部部室の一階下で工事の作業員が部屋の鍵をマスターキーで閉めてまわる姿だった。これもまた、画面の下方に語られるべき真実が隠されていたということである。このような構図は、実は第一話から第五話まで徹底して貫かれている。例えば、第一話のBパートで教室で会話を繰り広げた三人は、「女郎蜘蛛の会」のメモを探しに階段を右回りの螺旋を描きながら降り(ここで上手から下手に逃げる奉太郎は、実際には音楽室の謎から逃げている)、一階昇降口の掲示板(画面下方)にメモを発見(捏造)する。或いは第二話の「愛なき愛読書」事件では、語り部の位置を避けようとする奉太郎は常に下手に逃げようとするも、えるに直接的に引っ張られたりカメラの位置が切り替わることで上手に立たされる。そして結局は語り部となった奉太郎が更に上手へ歩きつつ語り、それを聴くえると摩耶花は下手から追う。また、二人が美術室の中を覗き込む際に彼を追い抜くのは次の美術室内からのカメラが上手に奉太郎、下手に二人を捉えるためだ。続いて喫茶パイナップルサンドでの会話は、これまでと逆転し、語る(告白する)側のえるが上手、聴く側の奉太郎が下手に座っている。次で最後にしよう。第三話、壁新聞部では語らせる(古典部の文集『氷菓』の在り処を探す/訊き出す)三人が下手に立ち(加えて言えば、諦めようとする奉太郎は下手に逃げようとする)、それを隠す=語ることの出来る遠垣内が上手に立たされている。その中で文集は彼らの間、画面中央下である机の下に隠されている。そして、古典部の部室にて遠垣内の真相を暴き立てる際には無論、上手に奉太郎、下手に二人が立つのである。
 このようなアニメ『氷菓』の構図を簡潔な図にすれば以下のようになる。

聴き手(二人称)←                    →語り部(一人称)



        語られる対象(三人称)↓

 この図は、既に前節の確認した第六話「大罪を犯す」で奉太郎(一人称)は語られる対象(机の上に並べたクッキーで示される真相=三人称)は語り得ても、聴き手であるえる(二人称)の「内面」は決して読み切ることが出来ない、と述べていることをそのまま表していると言えるだろう。
 ここで、これを更にある一つのモノに見立ててみてはどうだろうか。それは開かれた本である。具体的には以下の画像に重ねて観る、ということだ。
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 すると、先程の図は、この画像を踏まえるならこうして書き換えるべきだろう。

未読の知られていない未来←                    →既読の知っている現在



             届けられるべき過去↓

 この三角形はこれまで観て来た通り、一貫してアニメ『氷菓』を形作るモチーフとなっている。それは細かな所では例えば、古典部の部室でえるが「不毛です!」と叫ぶ際に両手を上げて「Y」、或いは「V」の字を作るに至るまでの執拗さでだ。何故にそのようなことが必要なのか。それは前述した語られるべき対象と、この「Y」と「V」というアルファベットこそが、この『氷菓』の真相に最も必要なものであるからに他ならない。
 ここで説明しておくと、第三話(正確には第二話のラストからだが)以降の、つまり小説『氷菓』の本題、メインとなる謎は、えるの伯父である関谷純の『氷菓』に纏わる謎である。その真相は、過去に「優しい英雄」でと呼ばれた関谷が本当は望んでそうなったのではなく、生け贄となったこと。そして何よりも、彼が『氷菓』というタイトルに込めたメッセージ、「氷菓→アイスクリーム→I SCREAM=私は叫ぶ」であった。
 そう、ここで解き明かすべきは文集『氷菓』(それは引いては、実際の小説『氷菓』自体でもあるだろう)の背表紙や装丁に書かれている『氷菓』をアルファベットとして捉えることなのである(その意味では、あの「愛なき愛読書」事件で装丁が重要だというのも、メイン事件のヒントとなっている)。ここである補助線を、作中のアイテムから導いてみよう。それは第二話で奉太郎が読んでいる坂口安吾『堕落論』である。私は前節で一人の評論家の名前を挙げた。柄谷行人である。実はその著作に『坂口安吾と中上健次』というものがあり、彼はそこでこう述べている。

 安吾は探偵小説を書き、また探偵小説を書いただけではなく、「歴史探偵方法論」というものを書きました。古代史というものを探偵として見ようとした。そういう意味で、「探偵」ということが大きな要素となっています。「探偵」と呼ぶべき存在は、現実からではなく、ポーによって作られたと言ってもいいでしょう。[…]
 ポーの小説に『大渦にのまれて』というのがあります。船が渦巻きに吸いこまれて難破して、どんどん渦の中心に巻きこまれて行く。そのとき主人公は、容積の大きいものは流れが遅いということを見出します。これは「関係」の認識です。そこで彼は大きな木片にしがみつき、渦が終わるまでの時間を稼ごうとする。その結果、助かるわけです。この小説で「渦の中にいる」ということ、それを安吾の文脈でいうと、人間関係のムチャクチャなどろどろしたところにいる、つまり盲目的な場所にいるということと同じですね。したがって、われわれが生きているということと同義であって、そういう中で、意識化できるとこを意識化しようとする。だからといって、それでもって渦巻きを止めてしまうことはできない。しかし、その中においても可能なことはある。それは関係を考察することです。その関係を考察することで、渦というものから多少は逃れられる。それが詩を書くということの意識化とつながっています。
「探偵」というのは犯罪者を追い掛ける、捕まえるわけなんですが、罪というか、そういうものに何の関心も持っていない。ただ犯罪の形式に関心を持っているのです。捕まえること自体、あるいは罪そのものに何の関心も持っていない。だから、むしろ犯罪者が優秀であればいい。というより、探偵は犯罪者と同じようなものであり、もっとタチが悪いのです。犯罪者は罪の意識にかられることがありえても、探偵にはそれはありえないからですね。罪というようなことは意味の問題ですが、探偵はたんに犯罪の形式にしか関心を持たない。つまり探偵のあり方とは、意味でも無意味でもなく、非意味に関わるのです。安吾の言葉でいえば「ノンセンス」です。いいかえれば、ノンセンスとしての形式、これが探偵小説の発生にあります。[…]
 言語というものを、ふつうは意味という観点から見ていくんだけれど、活字という形態で見ますと、たんなる活字版ですから、意味でも無意味でもないわけです。ただノンセンス(非意味)なのです。

 […]彼の「堕落」という言葉も、そういう意味があると思います。「堕落」というのは、道徳的な意味ではたしかに堕落なんだけれども、倫理的にいえば、それはまさに本来的な場所に立つことであり、他者に出会うことなんですね。結局、関係の中にあること、その絶対的な関係の中にあるということ、それが「人間」を知ることだとなっているわけです。ですから「人間」の考えていることを知るとか、どういう女がいるとか、どういう男がいるとか、そんなことを彼は少しもいっておりませんね。「人間」を知るということは関係の絶対性を知ることであると、ほとんどそう換言してかまわないでしょう。
 それは『文学のふるさと』というエッセイなどでも基本的にそうです。ここで引用してみます。《私たちはいきなりそこで突き放されて、何か約束が違ったような感じで戸惑いながら、然し、思わず目を打たれて、プツンとちょん切られた空しい余白に、非常に静かな、しかし透明な、ひとつの切ない「ふるさと」を見ないでしょうか》と。またさらに《モラルがないこと、突き放すこと、私はこれを文学の否定的な態度だとは思いません。むしろ、文学の建設的なもの、モラルとか社会性というものは、この「ふるさと」の上に立たなければならないものです》と書いている。彼は「突き放される」という言葉を使っていますが、何が突き放すのか。突き放す何かとは、いわば〝他なるもの〟です。他なるものに突き放される。それこそが「文学のふるさと」だ。他なるものに出会うこと、それが安吾の言葉でいえば「堕落」なのです。ふつうの「堕落」という言葉の使い方とは明らかに違います。

 ここで安吾と言葉について考えてみます。たとえば安吾は「人間」といっており、言語は二の次であるかのごとく考えているように見えるかもしれませんが、それはむしろ逆だと思います。既にポーのことで話したけれど、安吾のそういう認識は、おそらく人間よりも言語の体験から来ているのではないか、と僕は思うんです。安吾の中で最も大きな体験は、そういうことだったはずです。彼は、二〇歳くらいのころ東洋大学で猛烈に仏教の勉強をしたのですが、悟りも開けないし、悟りなんていうのはよくわからない、結局ひどい神経衰弱に陥った。そのとき彼は、アテネ・フランセにフランス語を勉強しに行くわけですね[…]
 言語の他者性といいますか、外部性というのを体験するのは、母国語では絶対ないと思います。母国語というのは必ず意味というか、思考のほうが優越している。思考があって言語がある。ほとんど、そうなってしまいます。ところが、外国語というのはそうじゃない。まさに形式のほうが先にあるわけですね。[…]
 これは、いわば意味を徹底的に捨てていくことにほかなりませんね。安吾の小説でいえば、『白痴』になることです。彼の文学の第一の出発点はファルス論だけれど、これは彼のいう女性体験が始まる前です。したがって、安吾にとって他なるものとは必ずしも女性ではなくて、むしろ言語であるといってよい。「人間を知ることは」と言う場合の「人間」の中に、明らかに言語の問題が入っているのだと思います。それはしかし、人間というのは言語に過ぎないというような、昨今の、それ自体すこぶる呑気な考えとは別であると思うのです。
(柄谷行人『坂口安吾と中上健次』より「安吾その可能性の中心」)

 些か長くなってしまったが、『氷菓』を語る上で必要だと思われる部分を全て引用すると、このようになってしまわざる得なかった為、ご容赦願いたい。
 さて、柄谷が述べている内容には、ここまで述べて来たこと、そして何よりも『氷菓』での様々なシーンを思い起こさせるような示唆的な言葉が多く含まれていることは、ここまで読んで来て頂けた読者の方々には容易に理解出来ることだろう(例えば、『氷菓』で言うなら海外――しかも、多くは紛争地帯など――に旅行に行っている姉だ)。
 奉太郎(そしてウォー)の言う通り、語り部(一人称)は、聴き手(二人称)のことを絶対のものとしては語り得ない。そこから「突き放される」ことを前提に、語られるべき対象(三人称)のある下方へ「堕落」して行かなければならないのだ(その意味では、実は奉太郎こそが、例えば柄谷の云うように、盲目的に現在と戦う者=“道化 FARCE”だと言えるだろう)。そして、そこにあるのは意味の優越する母国語ではなく、外国語=アルファベットとして表象される「関係」性なのである。そうすることでアニメ『氷菓』は「I SCREAM』(過去)を導き出すことが出来る「ミステリアニメ」として成り立っている。
 確認になるが、ここで私はアニメ『氷菓』について、このような映像的な、言い換えれば非意味な形式にのみ淫するべきだと述べている訳では決してない。ただ、そのような地平において初めて逆説的に二人称(未来)に届き得る/届かせ得る、ということだ。それはあたかも「風景に無関心なように見える内的人間」において初めて逆説的に「風景」を発見出来るように、である。
 今節の最後に、これまでは「空間」にばかり触れて来たので、「時間」についても触れておこう。えるが思い出せなかった伯父との思い出、それは如何様にも分岐する秘められた過去である。しかし、それはいつかは決定されるものである。それがどうやって決定されるかが、第一節の最後に私が提示した謎であった。ここまで来れば、それは簡単に理解することが出来るだろう。それが「時間」なのである。本作において「時間」はえるが伯父との思い出を“忘れる”ことで成り立っている(いや、そもそも「時間」とは忘れる中で生まれるものなのではないだろうか。フロイトの「マジックメモ」は、そのようにも読めるのではないか)。これもまた、意味を捨てて行く行為に他ならない。私たちはある作品に対して多様な意味=解釈を、それこそ無限に読み取ることが出来る。しかし、それは時間と共に消えて行き、まるでSFにおける並行世界が収束するかの如く、事実に対してそれに相応しい「評価」が与えられるのだ。よって、私は何かを「名作だ」、「これが真実だ」と声を挙げることが無意味だ、などと諦観めいた発言をしたい訳ではない。ただ、それはその場限りの一人称単数で決まるものではなく、もっと複数的に、時間を掛けて決定されるというだけだ。芸術作品、例えば音楽や絵画において、作者の死後にそれが「評価」されることも多かったことを考えれば、それはただ当り前のことなのである。そのような「灰色」を前提に、私たちは叫ばなければならないのではないだろうか。

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 アニメ『氷菓』はここまで観て来た通り、その本自体を映像に置き換えた見立てとして翻訳されている。つまり、このアニメを満たしている“何か”とは(というよりも、この作品自体が)本そのものであり、言い換えればそれは“文字”だった。それ故に、今作では京都アニメーションではこれまで観られなかった“文字”を使った演出が多用されるのだと言えるだろう。そして、それを可能にするのが綿密なコンテワークと演出である。
 最後に、「空間」を満たす“文字”について、少しだけ話を延長しよう。何故なら、左右(一人称と二人称)と下方(三人称)の話はこれまでして来たが、上方への志向の問題はこれまで意図的にではあるが避けて来ているからだ。それでは「空間」が成り立たないことは言うまでもないだろう。
 アニメ『氷菓』のOPでは、波紋の演出が多く使われている。具体的には冒頭の灰色の世界にいる奉太郎を波紋が色付けていくシーンのように、このアニメの「空間」を何かが満たしていることはここで視覚的にも理解出来る(また、アニメ本編においても、例えばコーヒーを混ぜるなどといった、水面を攪拌する動きは至る所で見受けられる)。このような波紋が、ウォーの云う「擾乱を起こす物質の物質の最も微小の構成要素」や、ポーの「大渦」と同義であることは明白である。そして、それはこれまで確認して来た通り、“文字”であった。その時、一人の作家の言葉を私は思い返さずにはいられない。

 書かれた文字は遺伝される物質体だ。言語はエーテル体であり、本の生命だ。物語はアストラル体。歓喜と苦悩を語り、様々な「登場人物」を描写する。自我は全体の理念である。この理念は別の文字や別の言語、そればかりか他の物語でさえ実現されうる。高次の自我は、これら全ての背後に立つ詩人である。――ミヒャエル・エンデ

 そう、“文字”とは“エーテル”なのではないだろうか。

アリストテレスの世界像を根底から打破しようとしたデカルトは、やはり真空の存在を認めておらず、物質の粒子の間をうめるものとして「微細な物質」を想定し、その動きもしくは働きによって光が伝達されるとした。また近接作用のみを認めたデカルトは惑星は流動し渦巻く物質にのって運動していると考えた。これが後に物理学におけるエーテルの概念へと発展した。この意味でのエーテルは天上の物質ではなく、世界のあらゆるところに存在する。

一方、化学におけるエーテルは、今日でいうジエチルエーテルが発見された際に、その高い揮発性を「地上にあるべきではない物質が天に帰ろうとしている」と解釈されたことからその名が付けられた。
(Wikipedia『エーテル(神学)』)

 京都アニメーションが「空間」を満たすものとしての“光”から“空気”を見出したことは最初に触れた。そして、それと同時に彼らが常に俯瞰する位置(メタ)への志向を持ち続けて来たことも。だとすれば、“エーテル”は、このような京都アニメーションの志向と極めて親和性の高い、必然として見出されるべきものであったと言えるのではないか。私たちは、ここで京都アニメーションが描こうと、撮ろうとしているのが“エーテル”に満ちた宇宙なのだと結論付けることが出来る。
 例えば、古典部の部室には、実はそこにあるには相応しくないものが多く存在している。それは、地球儀やロケットのポスターなど、どちらかと言えば天文部などにあって然るべきそれだ。また、EDにおいて、えると摩耶花、少女二人の煌めいた「空間」は、まさに“エーテル”の特徴である「つねに輝きつづけるもの」として描かれる必要性のあったものである。EDで描かれる「消えることのない輝き」にこそ、エーテルは最も分かりやすく現れているのだ。

 勿論、現在の私たちは上記のようなエーテルが現実には存在しないことは知っている。しかし、小説やアニメなどのフィクションを描く場合に、それに如何ほどの意味があろうか。小説家であり、評論家のミラン・クンデラはこう書き記す。

 フィールディングはありえない、もしくは信じられない物語をでっち上げることはしなかった。それでも、みずから話すことの本当らしさなど、彼の顧慮するところではなかった。彼は現実性の錯覚によってではなく、みずからの作り話、意外な観察、みずからが創り出す驚くべく状況などの魔法によって聴衆たちを幻惑したいと欲していた。逆に、小説の魔術が場面の視覚・聴覚的な喚起に存ずるようになったときに、本当らしさは規則中の規則になった。すなわち、自分に見えることを読者に信じさせるためには必要不可欠な条件に。
(ミラン・クンデラ『カーテン 7部構成の小説論』)

 彼は19世紀から「リアリズム」が「それに先立つ数世紀の小説をなかば忘却のヴェールで覆い隠し、小説の未来の変化を困難なものにすることになった」と語る。それは、私がこの記事のエピグラフに選んだ坂口安吾の『FARCEに就て』でも語られていることだ。最後に、その文章を引用してこの記事を締め括りたいと思う。

 ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである。ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらに又肯定し、結局人間に関する限りの全てを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。諦めを肯定し、溜息を肯定し、何言ってやんでいを肯定し、と言ったようなもんだよを肯定し――つまり全的に人間存在を肯定しようとすることは、結局、途方もない混沌を、途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに呑みほすことになるのだが、しかし決して矛盾を解決することにはならない、人間ありのままの混沌を永遠に肯定しつづけて止まない所の根気の程を、呆れ果てたる根気の程を、白熱し、一人熱狂して持ちつづけるだけのことである。
(坂口安吾『堕落論』より「FARCEに就て」)

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